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1987年に神奈川のメンバーを中心に発足しました。 犬猫の殺処分、不妊去勢運動、被災動物保護、馬の問題、動物の売買の問題、動物実験、毛皮、畜産など、様々な問題を取り扱ってきました。 こちらのアニマルライツセンターについてをあわせてご覧ください
アニマルライツセンターは特定非営利活動法人として活動を行っています。 運営はNPO法人として毎年正会員で総会を開いておりその場で重要な決定を行っています。また会計、事業報告書は毎年東京都に提出を行っています。 また、運営は寄付金と会費で賄われており、国等行政からの助成金は一切得ていません。 運営方針: アニマルライツセンターには主な方針を決める理事が5名以上、監査が1名以上います。そして正会員は決定権を持っており、会員一人一人が活動を進めていきます。動物の問題は非常に多岐にわたっており、山積みになっています。ひとりが活動しようと一歩踏み出したとき、その問題・事件・プロジェクトについてのリーダーがうまれます。 アニマルライツセンターは「何かをしてくれるところ」ではなく、動物への善意を形にできるような社会にみんなで向かっていく団体です。
アニマルライツセンターは、人間の娯楽のための動物の利用や、動物実験、工場畜産など、動物の権利が侵害されている問題に対して、動物がみだりに傷つけられたり、殺されたりせず、自然に近い形で生きていけることを目的とし、以下の活動に取り組んでいます。 1.動物実験の廃止。 2.工場畜産の廃止あるいは大幅な縮小。 3.野生動物の商業的利用の全廃への取り組み。 4.保護動物たちの悲惨な現実を明らかにし、改善したりなくしていくこと。 私たちの活動は、暴力をなくす運動ですので、将来的には人間の平和にもつながる活動です。 WEBサイトをご覧下さい。 また、ご住所とお名前をお知らせいただければ、アニマルライツセンターの会報をお送りすることもできます。アニマルライツセンター オフィシャルサイト 動物実験は要らない NO More Animal Tesitng 医学的見地から動物実験に反対する 犬や猫に権利を!犬猫の問題について 畜産 食生活を見直そう 菜食御用達リスト ベジタリアンレストランガイド 肉食.com 環境・飢餓・健康から肉食を考える 毛皮は要らない 毛皮反対サイト 毛皮反対デモ行進 中国毛皮産業の実態
FAOやOECDなどのデータは、今後人口の増加と共に肉食の量も増えていくことを示しています。動物の畜産利用、動物からの搾取をすぐに無くすことは無理だろうと私たちは分析しています。 この先も当分の間は、何憶何兆もの動物が、畜産利用され殺され続けます。そう考えた時に、彼らの苦しみを少しでも軽減するために動物福祉(アニマルウェルフェア)の運動も必要だと考えています。私たちが行う動物福祉運動には、ケージや妊娠ストールなどの監禁飼育の廃止を働きかけたり、淘汰方法や屠殺場での動物の扱いの改善を求める活動があります。 私たちの目指すのは、畜産や娯楽における動物利用の廃止、動物搾取の撤廃、つまり動物の解放です。 しかし、アニマルライツ運動とは、自分のやりたいことをやるのではなく、動物にとって最善の行動をとることです。わたしたちは、動物にとって何が最善かを考えた結果、動物福祉とアニマルライツ運動を並行しています。 根本的には異なる考え方ですが、動物の苦しみを減らすという考えは共通しています。理念を議論することは私達の目的には有りません。私達の目的、使命は動物たちの苦しみをより多く、より早くなくすことです。個人がアニマルライツを支持しながらアニマルウェルフェアの運動を行うことは個人の心のなかに矛盾が生じることは間違いが有りませんが、しかしその人間個人の葛藤が、動物の苦しみを減らす運動を妨げてはなりません。動物にとっては、あなたの心の中の良心や葛藤は全く重要ではなく、動物たち自信に起きること=結果が全てです。 また、アニマルウェルフェアに配慮することにより動物本来の価値に気が付き、動物を利用できなくなる人は非常に多く存在します。並行して行うことによる相乗効果は間違いなくうまれています。 動物の苦しみを無くそうという運動は世界中で多くの団体がおこなっています。私たちと同じように動物福祉とアニマルライツを並行した運動方法をとっているところもありますし、動物福祉だけの運動、あるいは動物解放だけの運動のところもあります。日本には、そのどれもが不足していて、特に畜産動物の社会システムを変えようとする団体は私達以外に今ないことを考えると、私達は自分たちの心情にとらわれず、効果のある方法を追求していく必要があると考えています。 今はまだ、どのやりかたが正しく、どのやり方が間違っている、ということを議論する段階ではありません。動物の犠牲の数はあまりにも多く、動物のために声を上げる人はあまりにも少ないからです。
まず、人間は自然に反し、動物と共存すべき環境を破壊し、動物を人間のために従属させ、動物の苦しみを無視し搾取しています。この質問(意見)は、これらを当然のこととした考えのもとに成り立つ質問です。 現在日本人が当たり前のように享受している「権利」を思い浮かべてください。人間らしく生きる権利 他人に財産を侵されない権利 職業を選択する権利 裁判を受ける権利 などなど・・・そしてもっと基本的な権利の中には、他人に命を脅かされない権利 誘拐されない権利 監禁されない権利 食用に繁殖させられ殺されない権利 人体実験に使われない権利、家族と暮らす権利 売買されない権利などがあります。現在、日本人にとってこれらは当たり前であり、ことさら「権利」として言われるものではないかもしれませんが、現在でも人間は動物の命を脅かし、誘拐し、監禁し、食用に繁殖して殺し、動物実験に使い、親から子を引き離し、売買しています。 次に、義務を果たせないことが権利を享受すべきではない理由にはなりません。幼児や、あるいは重度の障害をもった人たちが権利を認められないと言えるでしょうか。こうした人たちを監禁し、安全性を確かめるための実験に使うことが許されるでしょうか。許されるはずがありません。 *注* 動物の権利というのは、動物に対して人間のもつ全ての権利を認めること(例えば参政権や、教育を受ける権利など)を意味しているわけではありません。 最後に、動物は地球上でさまざまな役割を果たしていることを付け足したいと思います。
動物の福祉は、人が動物を利用することは否定せず、しかし、利用する際には動物に対してよりよい扱いを求めるという考え方です。 アニマルライツ運動のように、人が動物を搾取し利用することを否定するものではありません。 動物福祉という言葉も、やはり動物を利用する立場の人によっても多く使われています。
動物愛護は、動物に関心の強い人が、動物への虐待や非倫理的扱いなどから動物を守ることです。 愛護という言葉は、その対象物を好きか嫌いかという人間の感情をもとにした言葉です。 一方、動物の権利運動は、好きか嫌いかが問題なのではありません。例え動物が嫌いであっても、人間という種に属さないという理由で、その動物の生きる権利を奪うことも、その動物を虐待することも倫理的には許されないという考え方です。 現在日本では「動物愛護」という言葉が多用されていますが、聞こえのいいその言葉は、しばしば動物を搾取し動物の権利を奪うことを正当化するためにも使用されます。 例えば日本の犬猫の殺処分施設は「動物愛護センター」の中に作られています。また、動物実験を行う人も、動物を商品として売買している人も「動物愛護精神をもって」動物を利用しつづけます。 動物を搾取する現状を維持するために、その現状をオブラートに包むための言葉として使われることもあることを市民は認識しておく必要があります。
例えば、二酸化炭素の排出増加による地球温暖化は、人間が多少とも化石燃料を使っている限り、完全に防ぐことはできないかもしれません。しかし、「温暖化を完全に防ぐことはできないから、温暖化対策などまったく必要ない」と考える人は少ないように思います。多くの人は、少しでもエネルギーを節約したり、代替エネルギーの開発に賛同したり、温暖化のスピードを緩めるためにできるだけの努力をするでしょう。 動物の権利をまもる運動を進めても、各自のライフスタイルをなるべく動物の犠牲が少ないものに変えていっても、人間により犠牲になる動物が完全になくなるかどうか、確実なところはわかりません。 しかしそれでも、そのような運動やライフスタイルの変更により、犠牲となる動物を減らすことができるのは確実です。苦痛を感じる存在に対して、なるべく苦痛を与えないようしていくことは、正しいと考えます。
植物には脳が存在せず、痛みを伝える神経組織の存在も確認されていません。したがって、植物には痛みを感じる能力はないと考えられます。少なくとも、哺乳類や鳥類が感じるのと同じような仕組みでは、「痛み」は感じていないでしょう。苦痛を感じる能力を重視する動物の権利論においては、植物は権利を与えるべきものとしては扱われません。 動物と植物はその発達の経緯や種を守る方法が全く異なります。動物種の一連の流れとして捉えることは誤りです。 では、植物はいくらでも犠牲にしてよいのでしょうか。そのようにも思えません。苦痛を感じているかいないかに関わらず、生命を大切にしたいという自然な気持ちを人間は持っています。動物の権利論は、そのような人間の感情も大切にできるものです。 植物の犠牲をなるべく少なくするためには、どうすればよいのでしょうか。そのためには、ベジタリアンになることが有効です。例えば牛肉1kgを生産するためには、牛に食べさせる穀物が10kg程度必要だとされます。穀物の犠牲や、穀物を生産する際に駆除される昆虫の犠牲を減らすためには、穀物を牛に食べさせて、その牛を人間が食べるのではなく、人間が穀物を直接食べるほうがよいことになります。 植物の犠牲を本当に減らしたいのであれば、なるべく肉を食べない食生活にするほうがよいでしょう。それはそのまま、動物の犠牲を少なくすることでもあります。
動物の権利論では、苦痛を感じる能力があることが重視されます。そして、苦痛を感じるための感覚器官や神経組織、脳を備えていることが一応の判断基準となります。さらに、種々の感情や欲求を持つこと、知覚、記憶、未来の感覚があることなども考慮されます。 そうした能力や感覚は、細菌には明らかに存在しませんが、哺乳類や鳥類には確実に存在します。魚類についても、やはり苦痛を感じているという研究が最近出てきています(参考:ヴィクトリア・ブレイスウェイト『魚は痛みを感じるか?』, 高橋洋訳, 2012年, 紀伊國屋書店)。軟体動物や昆虫などの節足動物については、議論が分かれています。 したがって動物の権利論は、哺乳類や鳥類、魚類について、人間に利用されたり殺されたりせず、なるべく自然のままに生きていく権利を求めることが基本となります。 では、軟体動物や昆虫はいくらでも利用したり殺害したりしてよいのでしょうか。そんなわけはありません。どんな生物に対してであれむやみに生命を奪ってはいけないという人間の持つ自然な感情を、動物の権利論は尊重します。 それではさらに、植物はどうなのでしょう。植物は苦痛を感じないのでしょうか。植物はいくらでも犠牲にしてよいのでしょうか。これについては、「植物は食べてもかまわないのですか?」の項目でみます。
自然界では、いろいろな動物や植物が互いに影響を与えながら生活しています。微妙な自然界のバランスを人間の身勝手な行為によって破壊してはなりません。すべての生き物は、等しくこの地球に生きる権利を持っているのです。 動物たちには、人間から虐待や搾取を受けずに、自然のままに生活をする権利があります。基本的人権が尊重されるのと同様に、動物にも動物らしく生きる権利が認められるべきであり、種によってその権利は左右されるべきではありません。 ゾウにはゾウらしい生き方、ニホンザルにはニホンザルらしい生き方、豚には豚らしい生き方、魚には魚らしい生き方、人には人らしい生き方 があります。 そしてゾウにはゾウの能力や特性があり、ニホンザルにはニホンザルの能力や特性があり、豚には豚の能力や特性があり、魚には魚の能力や特性があり、人には人の能力や特性があり があります。 このあたり前のことを認め、その動物の生き方、能力、特性を尊重していくことは、ごく当たり前のことではないでしょうか。人と異なる能力や特性や形を持つからといって、その動物を差別し、支配してはならないのです。 この自分と異なる能力、特性、形を持つ動物を差別することを、種差別(スピーシーシズム)と呼びます。 「人の利益が優先されるのは、人は理性を持っているから、他の動物を能力的に上回っているから、言葉を話すことができるからetc.」と言う主張は、人の利益や搾取の現状を維持・正当化し、他種の動物の利益を犠牲にするために使われてきました。 皮膚の色や性別の違いがいのちの質にとって重要でないのと同様に、毛の長さや形の違いも重要ではないのではないでしょうか。また、人間であろうとなかろうと、精神的にも肉体的にも苦痛を感じる動物が存在します。 アニマルライツ運動は、種差別に反対し、人に与えられる基本的な権利を種の壁を越え、動物にまで広げ、理由をつけて動物を使ったりせず、同じ地球に生をうけた生物として他の仲間に対してその生き方や能力、その動物らしさを尊重していこうという運動です。
苦痛を感じる能力があること(そのための感覚器官や神経組織、脳を備える)をはじめとして、感情や欲求を持つこと、知覚、記憶、未来の感覚があることなどを基準に、そのような動物にはなるべく自然のままに生きる権利や、人間に危害を加えられない権利があり、人間はそれらの権利を守る義務がある、という考え方です。苦痛を感じる能力のある動物に対して、苦痛を与えることをなるべくやめていきましょう。そのためには、動物を犠牲にする私たちのライフスタイルを変えていく必要があります。 苦痛を感じることのできる相手に対して、あえて苦痛を与えたいと思う人は少ないはずです。そのように配慮する対象を人間に限るのではなく、動物にも広げましょう。動物愛護法のよい側面を、さらに多くの動物へ。