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「囚われの身の動物における遺伝子的多様性の欠如が、動物園の繁殖プログラムにとって深刻な問題である」(動物の権利) 近親勾配によって死亡率が通常の6倍以上高い種もあるといいます。 Aという絶滅危惧種がいたとして、Aの遺伝子を残すために動物園で飼育することになります。動物園で飼育される事になった数頭の不運なAたちの生涯を犠牲 にして、いつか自然に戻すことができるかもしれないのだからAのためだと主張することができるのでしょうか?人工的な場所に監禁されて生き続けるのであれ ば、自然に任せたほうがその動物にとってはましだと言えないでしょうか。 動物園に費やされる財源と知識を動物が生息地保護にまわすことこそが種の保存なのはないでしょうか。 さらに、動物園では絶滅に瀕した動物より、瀕していない動物が繁殖されている。人工繁殖に成功したということは動物のためとは言えず、研究者、動物園の利益にしかなりません。 また、絶滅を救うためなどの大義名分を忘れ、ショーのために使ったり、長い時間人目にさらしたり、その動物が持つ経済効果を優先させる場合が多いのが現実です。
娯楽を提供することにより、動物園は訪れる人を楽しませ、利益を得ます。 しかし、人間の娯楽は、動物たちから権利を奪い苦しめてよい理由にはなりません。 すでに人間は、より人道的で高度な娯楽を多く開発しています。 スポーツやゲーム、美術館、博物館、テレビ、インターネットをはじめ、人道的な娯楽にあふれています。 弱い立場にある動物を犠牲にする娯楽は、まったく必要ありません。
しばしば「動物愛護思想の普及をはかること」が動物園の目的になっています。 監禁状態にある動物たちを前にして、動物愛護の思想を普及させるというのは、いったいどういうことでしょうか? また、「生命の共存や自然との調和を学ぶ」ことも謳われますが、それを動物園でどのように学ぼうというのか、私たちには分かりません。 むしろ、動物園と言う特殊な環境は、人間は自然を支配することが当然で、動物を思うままに支配してよい、動物は人に奉仕するために存在する道具なのだという間違った認識を広めてはいないでしょうか。 動物をコンクリートの床と鉄格子の狭い空間に一生監禁することに疑問を抱かない施設で、動物に対する尊重や配慮の気持ちが育まれることはありません。 動物園で動物の生態について知ることができるという意見もあると思いますが、動物の生態はその動物がしかるべき場所にいてはじめてわかることであり、動物園の狭い檻の中では正確に知ることはできません。 間違った知識が与えられる危険性があります。 人間も自然や地球、動物の一部であるということを、動物園から学ぶことはできません。
まず、野生動物を捕獲し囲いの中で飼育する事がどういうことなのか理解しなくてはなりません。自然の中から引き離され、長距離の過酷な移動に耐え、柵に囲まれた自由のない異質の空間で自然の行動パターンを奪われた状態で飼育され、時には食べ物を餌に厳しく調教されます。動物たちが神経に異常をきたすこともしばしばみられます。 人間の娯楽のために、動物園にとらわれた動物たちは、その動物が本来持っている全ての権利(自由や家族や自然)を全て奪われているのです。 動物を見世物にするという、動物の尊厳を無視した娯楽は、時代と共に消えていく文化です。 動物園・水族館の存在意義を確立するためには、彼らが奪われた多くの権利にもまさる重要性がなくてはなりません。 動物園・水族館の挙げる存在意義は、娯楽、教育、種の保存があります。それについては次の質問でお答えします。
世界一健康的ともいわれる日本食から日本人が離れつつあるのは、歴史上ごく最近のことです。 また、人間という動物自体、ナチュラルには熊に近いと言われている雑食性の動物ですが、それが肉食性に傾きつつあるのは事実です。 私たちの会は厳格なベジタリアン(ヴィーガンまたはビーガン)になることを会員に強制しているわけではありませんが、増えすぎた人間がさらに肉食に傾いていくことは、自然界のバランスを崩し、他の動物が自然に生きる権利を侵害していることは明らかな事実です。 また、家畜と呼ばれる動物が現在どのような状況で飼育され、殺されているのかを多くの人は知りません。 欧米圏または日本でも倫理的理由からヴィーガンになるという選択は、決して珍しいものではなくなっています。 動物実験擁護者や動物の権利への反対者などの中には、「動物を食べているのだから、動物実験等にも反対できないではないか」、という言い方をする人がいます。 また、このように攻められると、動物の現状に心を痛める人の中でも、「自分は動物を食べているから、動物の他の非倫理的な扱われ方にも強く抗議できない」と考え始める場合があります。 しかし、動物を食べるから動物をどう利用しようといいのだというオール or ナッシングの考え方ではなく、自らの意思でより犠牲の少ないライフスタイルを選択するべきだと思います。 今も苦しんでいる動物にとって、個人のこだわりよりも一歩の行動(実践)のほうがより大きな意味を持つのです。
アニマルライツセンターの理事は、動物性のものをいっさい取らないビーガンの食生活をする者や、なるべくビーガンやベジタリアンの生活をするよう心がける者などからなっています。必ず共通しているのは、現在の歪んだ工場畜産に反対していることです。
基本的にバランスの取れたヴィーガン、またはベジタリアン食を心がけていれば、まったく問題がありません。ほかの多くの食生活と同じように、栄養のバランスを考え食事を取ることは当然です。 多くの世界的なトップスター 、多くの歴史的に有名な偉人がベジタリアン食を実践しています。 また、肉食に偏った生活がもたらしている成人病から逃れる方法の一つとしても、ベジタリアン食は注目されています。 病気の療養食として動物性食品を排除した料理が出ることも多く、健康を損なうというよりは、むしろ体に良いと実証されています。 「私は現在85歳だが、これまでと同じように元気に仕事をしている。もうかなり長く生きたので、そろそろ死のうかと思っているのだが、なかなか死ねない。ビーフステーキを食べれば、ひと思いに死ねると思うのだが、私には動物の死体を食べるような趣味はない。私は自分が永遠に生きるのではないかと思うと、空恐ろしい気分になる。これが菜食主義の唯一の欠点である」– ジョージ・バーナード・ショー(アイルランド出身の劇作家、劇評家、音楽評論家、社会主義者。1925年ノーベル文学賞受賞) この後、彼は94歳まで生きました。
動物性のものを取らない理由は、いくつかあります。 まず、動物の権利から見た問題の大きさが上げられます。 現在の畜産業のほとんどは、効率と利益を重視し、動物を不自然な状態で飼育しています。 肉食についてはこちらをご覧ください 環境を保護するため 世界中の飢餓問題の解決のため 「菜食がもたらす情緒面での変化並びに浄化は、人類に対して非常に多くの利益をもたらすと考えます。したがって菜食は人類にとって非常に幸多き、平和なことなのです。人類は菜食をすべきです」–アルベルト・アインシュタイン 「私はかなり若い頃から動物を食べるようなことは絶対にしなかった。動物を殺すことは人間を殺すことと同じである。人間がこのことを認識する日はいつか来るだろう」–レオナルド・ダ・ヴィンチ
世界の地球温暖化ガス排出量の51%が畜産業(肉食)によるものだというレポートが発表されました。 牛から発生するメタンガスの量だけでも、18~21%占めているとされております。 また、放牧のためにアマゾン川流域の熱帯雨林の65%~70%が破壊されています。その他、穀物も30%が動物の食べ物になっており、それを動物の肉にして人間が消費すると、量、カロリーなどは約4分の1の価値になってしまいます。
たとえ一人であっても肉類や卵を減らすことですが、大きな影響があると考えています。 例えばミートフリーマンデーという週に一日動物性の食品をとることをやめようという運動を多くの方が実践すれば、動物の犠牲は7分の1になります。日本ではまだ広がりは少ないですが、海外ではサンフランシスコのような都市が公式に採用しています。国連などが600億頭~700億頭の家畜が居ると述べており、その7分の1というのはものすごく大きな数です。また、その1頭1頭が、感覚を持ち、個性を持つ動物であり、たとえそれがたったの1頭であったとしても減らすことによって救えることは大きな意味を持ちます。 私たちは畜産や屠畜の現場などに出向くことがありますので、よりそれを強く感じます。鶏や豚が1頭1頭、もがき、逃げようと暴れようとしています。 私たちは、1頭でも多く、救いたいと考えています。 完璧に動物性のものを避けなくとも、減らすだけでも、その一歩はとても大きいのです。
禁煙運動がタバコ産業従事者や葉タバコ生産農家に転業や転職を求めることになり、脱原発運動が原子力産業関係者にやはり転業や転職を求めることになるのと同様に、現在の畜産のあり方を批判する運動は、本質的には畜産業の関係者に転業や転職を求めていることになります。ただし、転業・転職の過程で、関係者の労働条件や生活水準があまり悪化することのないように、できれば配慮したり協力したりしたいと考えます。
現在の日本の有機畜産は、まだ生まれたばかりで発展途上です。多くの場合、倫理的飼育とはいえません。また、殺し方にまではまだあまり言及はされていません。 また、放し飼いなどのうたい文句であったとしても、その飼育現場を見て驚くケースも多々あります。ぎゅうぎゅうの状態でも放し飼いは放し飼い、不衛生で暗闇の中であったとしても放し飼いは放し飼いなのです。 一時動物に自然に似た環境を提供したからといって、種差別や搾取、苦痛を強いる事が正当化されるわけではありません。 ただし、今まさに苦しんでいる動物にとって、福祉的な飼育をうたう有機畜産は重要です。肉食を否定しない人は、有機畜産をより発展させるべきです。
残念ながら、現在動物たちは一瞬では殺されていません。 脳天を打たれたあと、体をさかさまに持ち上げられ喉を切られ、意識を取り戻し(体は動きませんが)、失血死をしています。 また、高速道路で運ばれる動物のトラックに出くわしたことはないでしょうか。 動物達はまず輸送される過程において多大なストレスにさらされます。 鶏はぎゅうぎゅうづめに網目状のケージに詰め込まれ輸送されます。正常な状態で立っていられる鶏はいないでしょう。そのケージが何段にも積み上げられ、トラックに詰め込まれます。トラックの荷台は100Kmの速度で走る恐怖、寒さや暑さに耐えなくてはなりません。 牛や豚も同様です。 殺処分場(食肉処理場)近くで悲痛な声で鳴く動物たちの声を耳にしたことはないでしょうか。 動物をのせたベルトコンベアーが屠殺を行う地点に近づく時、動物達は死の恐怖におびえ、死をのがれようともがき苦しみます。自分が殺されることの認識すらないと主張する人がいますが、血のにおいをかぎ、異常な工場の中で、恐怖を感じないでいると信じられるでしょうか。 日本には人道的に殺すべしとした法律はありません。規制の手は届きません。 電気ショックで意識を奪うケースであっても、苦痛は甚大です。人間であれば麻酔を施さないといけない処置です。また、イギリスの有機畜産で電気ショックを使う際に苦痛を軽減するため、濡れたスポンジを当てて行われますが、通常はそのような福祉はありません。 意識を奪い、その後失血させられます。 苦痛を感じないのであれば、その方法は人間にも適用できるのでしょうか。 いいえ、人間の安楽死には、このような方法をとることは許されません。
あなたにはたくさん出来ることがあります。 *毛皮を買わないこと トリムとしてほんの少しついているものも買わないことです。このトリムで毛皮業界は近年息を吹き返しました。 *毛皮を売っているお店、メーカーに、毛皮を使わないよう要望すること 消費者の声がもっとも力を持っています。あなたの意見をどんどん伝えてください。 *多くの人に、毛皮の製造過程を伝え、映像を見せ、毛皮を買わないようにしてもらうこと 伝えるためのチラシはお送りできます。お問い合わせください。
ぜひご自身でもお考えください。 人間は毛皮の代替素材をすでに開発しています。 現在人間はおしゃれのために毛皮を使っています。嗜好品なのです。けれども、動物にとってその毛皮は生きるために必要で、それがなければ生きることができません。人間は毛皮がなくても豊かにおしゃれに生きていくことができます。
そもそも、毛皮は普通の地域に住んでいる人間にとって必要なものではありません。 ごく限られた極寒の地域(-40度になる地域など)に住む代替素材を手に入れられない人を除き、利用すべきものではありません。 また、過酷な寒さの中で行われるスポーツ競技で使われるのは、毛皮はではなく、人工的な繊維です。 寒さを理由に動物を殺すことは、文明を発展させた社会である日本ではできません。 アニマルライツの主張の多くは、そういったごく限定された場合を除いて、人間が一方的に動物を利用することに反対する主張です。 人間が奴隷を使うのをやめたのと同じように、です。
個体の大きさにもよりますが、一般的に、1枚の毛皮のコートを作るのに、ミンクなら70~80頭分、キツネなら10~15頭分の毛皮が必要といわれています。 日本に輸入されているきつね、うさぎ、ミンクなどの毛皮は、全形(原皮)だけでもおよそ21万頭分です(2004年)。 これに加え、毛皮を部分的に使用している衣類の場合、頭数への換算は不可能ですが、例えば、女性用の毛皮付き衣類のすべてにフードの縁取り又はコートの襟として毛皮が使われているものと仮定した場合、それだけでも150万匹分以上ということになります(体長50~60cmのきつね又はタヌキの毛皮1枚から3着分で換算) 。
国によって違います。 日本には動物の愛護および管理に関する法律があります。 しかし、 現在のこの法律により動物の権利を守ることはほとんど期待できません。 海外の法規制についてはこちらをご覧ください。
効率と利益だけを優先させた結果です。 それを容認している社会(一般の消費者)が存在しているので、残酷な殺し方がまかり通っているのです。 日本の消費者も、この殺し方に加担してしまっているといえます。
こちらの2つのwebサイトと、 毛皮について詳細を知りたい方はこちら 中国の毛皮産業の実態はこちら こちらのPDFファイルレポート http://hopeforanimals.org/chinafurreportjp.pdf をご参照ください。 毛皮業者としては、毛皮動物の冬毛が生え変わるまで生きていれば良いわけです。 毛皮の品質に動物の福祉は無関係だといわれていますので、最低限のスペース、最低限の餌しか与えられず、殺し方や運搬の方法も非常に乱雑です。 一般に殺し方は、口と肛門に電極棒を差し込んで感電死させたり、首の骨を折ったりします。まったく動物福祉に配慮しない悲惨な方法です。 現在世界中に出回っている毛皮の多くは中国産ですが、中国では毛皮動物を地面にたたきつけたり、殴るけるなどで衰弱させ、生きたまま毛皮を剥ぎ取るという、とても直視できないような残酷な方法が取られています。 *なお、毛皮工場という言い方は正確ではありません。毛皮を剥ぐために動物を飼育する施設です。
動物の立場に立つことができなければ、動物について学んでいるのではなく、人間へのサービスを学んでいるだけになります。 動物の心を思いやることのできる想像力を持ち、命の真の大切さを知っているということは、何ものにもまさる大きな才能です。 その才能を忘れることなく、伸ばしていってほしいと思います。 動物を管理することはとても簡単なことです。ケージにいれ、水とえさを与え、注射を打てばいいのですから。 けれどもそれは、人間のための管理であって、動物のための行為では一切ありません。 自由を与えることは、ときに恐れを感じるものです。 子供が外に遊びに行くのを親が心配するのと同じだと思います。自身の不安感をぬぐうことを優先し、子供を閉じ込めておくことは子供にとっては苦痛そのものです。 管理するのではなく、動物を見守ることのできる社会になることを願っています。
ARCが被災動物救助の活動を始めたのは、1991年6月の雲仙普賢岳噴火時でした。 当初、自然災害時に飼育動物を救助することの重要性はなかなか理解されませんでしたが、いまや行政や獣医師会、動物愛護協会などがマニュアル化して取り組むほどになっています。 その後、阪神大震災、有珠山噴火、三宅島噴火、東日本大震災(原発エリアの動物の救助)時などに救助をおこなってきています。
・事前に、緊急・災害時の動物避難場所を各都道府県・市町村に確認してください。 ・避難勧告発令時には、必ずご自分の家族である動物についての対処を確認しましょう。 すでに多くの自治体では避難時には動物を連れて行くことを容認しています。もしそうではない自治体がある場合は、事前(通常時)に抗議を行い改善をしてください。 ・あなたの避難袋とともに、動物用の非常避難用品もそろえておきましょう。 ・犬の場合、鑑札は必ず首輪につけておきましょう。 動物の命を守れるのは家族であるあなたです。そのことを十分に理解し、事前の準備を行ってください。
現在の日本の法律では罪にはなりません。 保健所ではなく、動物を捨てることは罪になります。 法律で罰せられないからといって、無理やり保健所に動物を連れて行くことは倫理的に問題のある行為であることには変わりありません。 世間の目があるから保健所に連れて行くことのできない、といった環境を作りましょう。
保健所に連れて行こうとしている(その犬を殺そうとしている)人を見つけたら、保健所では安楽死ではないこと、飼い主には終生飼養する義務があることを説得してください。 その飼い主自身が自身のしていること(罪)の重大さに気がつかない限り、またいつか不幸が生まれてしまいます。いつかその人は後悔する日が来るかもしれませんし、動物を殺したことなんて忘れ去ってまた「動物が好き」などといいながら、動物を購入してしまうかもしれません。 現代社会では、動物の気持ちや苦しみを理解する想像力、命の重みを理解する道徳観念をもってない人が相当数います。そういう場合は、穏やかにお話していかなければ動物の犠牲はなくなりません。 もちろん相談者がその動物を飼育できる場合はそれで解決することもありかもしれません。 けれども、本来、飼い主を持って飼養しなくてはなりませんし、それが無理であるなら里親を探さなくてはなりません。当たり前のことです。 あなたがより多くの協力ができる場合、その動物の新しい家族を探す手伝いを申し出てください。
過去の医学進歩が動物実験のおかげだったと決めてかかるには注意が必要です。もしこれが事実だったら、その懸念は回避できたでしょう。しかしそれは誤りなのです。医学の歴史における水準点は、将来発展するであろう、以下の非動物由来方法論に依存しています。 In vitro research or test tube research 生きた組織における、in vitro研究もしくはストチューブ研究は多くのすばらしい発見の役に立っています。ヒト細胞は常に使用されるとは限りません;常に豊富な供給があるので それもありえます。血液、組織や器官培養組織は薬物治療の作用や毒性のための理想的な実験台です。 Epidemiology 疫学は、民間での疾病の流行や疾病免疫を説明できる要因を決定する、人間の集団を研究します。遺伝子研究と非動物方法の統合はここで列挙され、全体のシステムについてのとても正確な情報を提供します。 Bacteria, viruses, and fungi バクテリア、ウイルス、菌類は基礎的な細胞特質を明らかにします。 Autopsy and cadavers 検死と解剖用の死体は、疾病の分類や、骨折定着、背骨安定化、靭帯改造や他の処置のような手術技術を教えるために使用されます。 Physical models 身体モデルは、関節や他の生理学における耐久性の研究のために作られます。 Genetic research 遺伝子研究は、特定の疾病の原因である多くの遺伝子を解明しました。現在、患者のある疾病への素因を確認することができるので、内科医 は、最適の栄養、ライフスタイルおよび薬物治療を提案することができると同様にそれをより注意深く監視することができます。 Genetic research 患者の臨床研究は、人間が異なる治療にどのように応答するか、ある治療が他より優れているかどうか決めるか表します。私たちは、臨床研究に疾病や入院治療の基本知識が起因すると考えることができます。 Post-marketing drug surveillance 薬品市場監視(PMDS)は、新しい薬物治療のすべての作用と副作用が例えばFDAのような監視機関に報告されることによる、調査プロセスです。(明白 な利点があるにもかかわらず、薬品市場監視システムは、現在、難しく必要とされない報告方法として、その実行は不安定なものです。) Mathematical 数学的やコンピューター・モデリングは生きたシステムや化学反応をシミュレートするために数学を使用する複雑な研究方法です。 Technology 今日私たちが受ける治療の高い水準に、テクノロジーは大きな恩恵を与えてきます。MRIスキャン、CTスキャン、PETスキャン、X線、超音波、血液ガ ス分析機、血液化学分析機、肺動脈カテーテル、動脈カテーテル、マイクロスコープ、モニタリング装置、レーザー、麻酔機や麻酔モニター、手術室設備、コン ピューター設備、縫合、人工心肺、ペースメーカー、心電図、脳波図、骨関節代替、医療ホチキス、腹腔鏡手術、人工透析機など更にたくさんのテクノロジー は、科学技術的な発明の例です。 Specialization 専門化はさらに無数の命を救います。例えば、病理学の分野は、疾病への理解をより可能にしました。心臓学、腫瘍学、整形外科、小児科、感染症などのよう な分野への医療の専門化は、医師の、増加およびある特定分野の理解の共有を可能にします。病院での治療の専門エリアは、新生児の集中治療室(ICU)、心 臓のICUおよび外科のICUのように、持続的な治療を改善します。看護婦は、患者の処置をより良くするため、手術室やICUのために特別に訓練されてい ます。
いいえ、けれども多くの医学専門家は、詳しい情報に基づいた信念としてではなく、原理の問題として、実験動物研 究を支持します。忙しい専門職や、反対のわずかな情報だけでは、ほとんどの医師は進んで仲間と共に公に反対運動の重荷を背負ったりはしません。この異論に はあまりにも多くの研究とあまりにも多くのリスクを要します。しかし、もし個人的に調査したら、彼らの患者の治療方法を決めるためには、動物データでなく 人間のデータで検討すると認めるでしょう。. The Physicians Committee for Responsible MedicineやThe Medical Research Modernization Committee は、動物実験は人間の疾病に対する治療法に結びつかないと主張するAFMAに賛成する2つの医師団体です。 動物実験はいくつかの医科学校でカリキュラムの一部になっています。さらに、多くの医科学校は、研究所(助成金を得るために動物実験に依存している)に関 連があります。したがって、教育のこのスタイルが、動物実験が医学の進歩に関係していると医師に信じさせるのです。注意して下さい。これは動物が医学の進 歩の要因であると意味しません。動物実験は結果をもたらします;しかし、人間に関連ある新しいデータをもたらさなかったことを彼ら自身が明らかにしたとい う結果を、彼ら自身が認めなくてはならないでしょう。動物実験がどのように彼らの分野に貢献したのかという例を強調して提示するとき、この専門家たちはい つもきまって不十分です。彼らの分野へは適切ではないけれど、動物モデルは他の訓練に役に立つ可能性があると意見を堅持するかもしれません。 この起訴好きな風潮の中で、患者の健康のためというよりも、それに反して作用する薬の開発における動物実験の見方をもし医師が知ったら、彼らは薬を処方し ないでしょう。したがって、製薬会社は、医師が信頼を置く薬品の安全性と効果を動物実験が保障するという確信を奨励します。この「商品リスト」は動物実験 を医師が支持するもうひとつの理由です。 逆の事実の追求に影響されなければ、動物実験者によって行なわれる公認取引の安定した流入によって、医師も非常に簡単に説得されることを付け加えなければ なりません。動物実験は長い歴史をもっており、現状維持にもっぱら専念している何億もの人々と世界のいくつかの最大手企業は、それに反論を唱える勇敢な医 師やたくさん時間がある人を連れ去るでしょう。
この主張は、in vitroの研究方法論は、価値はあるが、生体システム全体で何が起こるか予測できない(それは真実である)ことを示唆します。 しかし、歴史は、実験動物 の結果が更に不適当であることを証明しています。テストされたある動物の中で何が起こるか予測できるが、動物実験は人間の中で何が起こるかは予測できませ ん。 代謝プロセスが種の間で非常に異なるとすれば、動物実験で蓄積された情報は全く信頼性が低いのです。テストされた種を除いて予測的な値を持たないので、人 間に応用する時、それは全く非科学的です。それは、提供することを明言する結果を提供しません。動物にとって効果があると証明された非常に多くの物質は、 人間への治療価値を実証せず、害を与えさえするかもしれません。苦痛を和らげ命を救うことができる薬品を市場から乏しい結果が締め出したとき、動物実験は しばしば入れ違いに発見のために機能することがよくあります。 これがそうであるとともに、結局、薬はすべて人間でテストされなくてはならず、その人達はみんな、動物がそうであるように実験室での創造物の端役です。彼 らがそう呼ぶように、薬物試験のこれらの「臨床段階」は、初めはとても少量の投薬量で反応を観察し、次に少しずつ量を増やすことを、人間のボランティアに 提案します。 臨床試験とその後の非動物方法は、どの実験動物でもできなかったこと―人間の代謝作用プロセスの総合的で正確な知識―を提供します。これは疫学や薬品市場監視(PMDS)に含まれます。
全ての動物細胞は共通の属性もっている(核・リボソーム・ミトコンドリアなど)が、とても小さな特質でさえ、異 なる種の細胞が食べ物や環境、薬物治療に反応する点を区別することが、現在は分かっています。電子顕微鏡を通してのみ見ることができるこの特質は、異なる 生き物を作りだした進化の原因であり結果でもあります。 失敗した動物実験は、小さな違いで病気を予防も発生もさせることができるということを最終的に証明しました。例えば、白血球表面レセプターは人間を AIDSにかかりやすくします。霊長類のなかで人間だけが、細胞の表面にシアル酸や糖たんぱく質を保有します。現在、科学者は、なぜ他の霊長類がマラリア や前立腺腫瘍、コレラのような疾病に免疫を持っているかが、これで説明できると主張します。 なぜ動物実験が同じ結果に結びつかないかを知ろうと努力する中で、科学者は、人間と非人間細胞の差を作り出す微視的要因(酵素・糖たんぱく質レセプター・ ベータケモキネスなど)をゆっくりと明らかにします。違いがあるから、全ての細胞が同じように作用しないのです。人間に動物データを応用する際、人間と動 物の非常に小さな違いでも、致死の過ちに結びつくのです。 動物実験者にバイブルの一種と広く見なされる本『実験動物科学のハンドブック』でさえ明言しています。 『ある種から別の種への推論の有効性のために、確実で一般的な規則性を与えることは不可能だ。これは・・・ターゲット種(ヒト)への最初の試験後、たいて い立証できる・・・動物モデルからの応用は・・常に後から判断する問題が残る・・・・(強調点)』
どれほど信頼性が低くても、人間が志願しない実験に動物を被験者にすることは計り知れないほどプラスであることは今も昔も明白です。動物は異議を唱えることができないのです。 私たちの知識の基礎を解明するには、たくさんの人体、組織、血液がありました。しかし、西洋では、キリスト教普及とローマ法王の布告は検体を禁止してしま いました。AD2世紀に、Galenという名のローマ人医師は、人間の生理学に関する結論を導き出した500以上の論文を広めるために際限のない動物実験 を行ないました。このたくさんの結論は全く不完全で、力を持つ教会高官が検死に眉をひそめ続ける間、私たちが現在関わっている「闇」に中世期に貢献したの です。 ルネッサンスは少しの猶予をもたらしました。教会の禁止命令を圧倒して、競争心の高い知的な研究が現れました。検死は、Galen以来1300年間普及していた医学の誤りを明らかにしました。疾病の本当の原因を明確にし始めたのです。 19世紀半ば、脚本家として失敗したClaude Bernardは、動物実験を取り上げました。彼のすさまじい熱意と(正確であるかないかはともかく)動物の制圧から効果的に得た結果の絶対的な量が、動 物実験ビジネスを作り出しました。医学研究は、医師の縄張りを越えて将来広がっていくでしょう;医師として行なうことができない人々は、広く影響を及ぼす のと同様に動物実験者として今までどおり生計を立てることができました。実際、動物実験の機械装置は、これらの結論が頻繁に人間の証拠を逆に圧倒する多数 の結果を生み出しました。 すぐに動物実験は研究費用を受け取ることを要求しました。動物繁殖業者は利益を得はじめました。実験動物供給者は市場の拡張を喜びました。などな ど・・・。動物の種と種の間と、動物と人間の間の結果には大きな相違があったにもかかわらず、成長する新しい産業は疾病研究に有用にとって見えたのです。 そして、1930年代、効果的に人間と同じように動物に作用する薬の一様の発生率は、同じ化学物質の薬の開発のために動物を使用することをも慣例化しまし た。もちろん、同じ問題は存在しました:動物は頻繁に違う反応をするのです。 しかし、製薬産業は継続し続け、動物実験者との強いつながりが進み、彼らの結果を使うことで利益を伸ばします。10,000人を超える赤ん坊に先天性欠損 症を引き起こしたつわり抑制のための薬、サリドマイドの被害は、薬物の安全性のあらゆる保障をアメリカ社会に提供するために、米国議会に拍車をかけまし た。その「保証」は動物実験の形式を取りました。 サリドマイド自体、発売前に動物でテストされ、動物では先天性疾患をもたらさなかったということには触れられませんでした。また、科学者が何を探すか知った後ようやく、サリドマイドから単に偶然先天性疾患が見つかりました。 「およそ10品種のラット、15品種のマウス、11種のうさぎ、2種の犬、3品種のハムスター、8種の霊長類と猫やアルマジロ、テンジクネズミ、豚、フェ レットのようなその他の種でサリトマイドがテストされ、奇形の結果はほんのたまにだけしか起こらなかった。」 また、科学薬品は別の種では全く異なる反応をするという豊富な証拠が既にあることも気に掛けられませんでした。薬は全て発売前に動物で安全性と有効性を証 明しなくてはならないという立法によって、政府は、医学的安全性に疑問のある製品を持つ製薬会社や他の産業の隠れ蓑を作ったのです。その後ずっと、訴訟に なる場合、大産業は法律の最大の範囲まで十分精励していると、正当に主張することができるようになりました。必然的に、大企業のこの法的安全ネットへの熱 意は、動物実験を神聖にして批判すべからざるものにするため、大きな役割を果たしています。
多くの外科医は、豚や他の実験動物でトレーニングを行ないます。また一方で、多くの外科医は(今も昔も)動物の研究が処置を混乱させると認めています。限りのある医学知識でみても、例えば整形外科では、犬と人間には大きな違いがあると常識が示しています。眼科医は、ウサギの放射状の角膜切開を完成させ、人間にそれを試しました。数人の人が完全に盲目になった後に、その処置をようやく修正しました。 脳神経外科の分野は別の例を提示します。手術不可能な頚動脈疾患のための頭蓋外-頭蓋内(EC-IC)バイバス処置は、犬とウサギでテストされ完成されました。手術が利点より多くの害を与えたことが発覚する前に、神経外科医は何千ものEC-IC手術を行ないました。その結果、救われるよりも多くの患者が死んだか、あるいは手術による発作に苦しみました。 移植外科もほとんど同じような話です。外科医が、ある動物から別の動物に臓器を移植する外科を形成しようとしたために、何百もの猫、犬、豚、霊長類が犠牲にされました。たとえたくさん動物で手術訓練をしても、初めの人間の手術は失敗します。人体に動物データを当てはめることは詐欺だと常に証明されています。人間の処置を行なうことでのみ、信頼できる技術が確立されるのです。
動物実験支持者は継続される動物実験の弁護として、いつもインシュリンの開発を提示します。その正当化として、 屠殺場から収穫されたインシュリンなしでは、多くの糖尿病患者がその命を失っていただろうと主張します。糖尿病の研究と治療の歴史を動物がよく顕している ことは事実ですが、それを使用する必要はなく、さらにはいつでも先端の科学ではありませんでした。 糖尿病は今日でさえ1000万~1400万人が侵されるとても深刻な病気です。盲目、切除、肝臓疾患や若死にの主要な原因です。ヒトの糖尿病の臨床サイン はAD一世紀以来知られているが、18世紀後半まで、内科医は検死で見られた膵(すい)臓の独特な変化とこの病気とを結び付けて考えませんでした。糖尿病 を動物で再現することが難しく、多くの科学者はこの病気における膵臓の役割を言い争いました。 ほぼ一世紀後の1869年、科学者は糖尿病患者で、インシュリンを生産するための膵臓細胞の中で正常に働かない細胞を識別しました。すい臓癌や膵炎(膵臓 の炎症)のように糖尿病の症状を作り出す、他の人間の膵臓の状態は、その病気と膵臓との関連性を強化しました。 動物実験者は膵臓と糖尿病に関する知識のうまく進歩する道を妨害し続けました。彼らは犬や猫、豚から膵臓を取り去り、確かにその動物たちは糖尿病になりま した。しかし、動物の症状は、糖尿病が肝臓の病気であり、肝臓とグリコーゲン(糖原)の移動に関連性があるという推測を導き出しました。この動物の研究が 長年糖尿病研究から軌道を脱線させたのです。 1882年、Marie博士という内科医が、先端巨大症(末端肥大症)、脳下垂体疾患、尿内の糖の間の関連性に気付き、それにより、糖質代謝と脳下垂体腺 が結びつきました。他の医師Atkinsonは、1938年、全ての先端巨大患者の32.8%が糖尿病で苦しんでいることを明らかにするデータを公表しま した。Bouchardatは1908年に同様の調査結果を公表しました。いくつかの理由で、結局、犬でこれを再現させた科学者Bernardo Houssayが1947年にノーベル賞を受賞しました。明らかに知識がHoussayの実験に先行しており、いくつかのヒトに基づいた方法が同様の発見 を生み出していたのに、彼の名声が犬のおかげであったことは、公正とはいえません。 1920年代初頭、2人の科学者John MacleodとFrederick Bantingはインシュリンを犬から採取する事によって分離させました。このため、彼らはノーベル賞を受賞しました。Macleodは彼らの貢献は犬の 研究でインシュリンを発見したことではなく、既にヒトで立証されたものを再現させることであったと認めました。確かに、人間からの豊富な組織があるので、 犬からインシュリンを採取する必要がありませんでした。単に都合がよかったからそうしたのです。同じ年、Bantingと他のBestという実験者は、不 運な結果の人間の患者に犬インシュリンを与えました。科学者が1922年に犬の実験についてなんと言ったかは注目に値します。 「インシュリンの生産は、一連の実験が、誤って理解され、誤って伝わり、誤って解釈されたことから始まる。」 BathingとBestと他の科学者は、in vitro(生体外・試験管内研究)技術を使う過程と、その後インシュリンの大量生産を食肉処理場で豚と牛から集めることで修正しました。 その後数年間、科学者は動物由来成分を改良し続けました。牛肉と豚肉のインシュリンが命を守ることは事実だが、それはまた一部の患者にアレルギー反応をも 引き起こしました。ヒトのアミノ酸と違って、牛肉のインシュリンは3つのアミノ酸を持ち、豚肉のアミノ酸はたった一つしか持っていません。取るに足らない ことのように聞こえるが、ほんの少しのアミノ酸の相違が知らぬ間に健康を害するのです。(嚢胞性繊維症や鎌状赤血球貧血のような恐ろしい病気の芽を生み出 すためには、たった一つの異常なアミノ酸で充分なのです。動物由来のインシュリン注射は、ある種から他種へ移行する伝染ウイルスの大きな危険も示唆しまし た。もしも研究者が、ヒトと家畜間の違いの溝と同様にこれら潜在的可能性に気がついていれば、科学者はもっと早くヒト由来のインシュリンの開発を急いだで しょう。 インシュリン投与をせず糖尿病で苦しむ患者の治療能力は、人間において偶然発見されました。今日、幸運な発見と事故実験から生まれた、口腔反高血糖の管理は、多くの患者にインシュリン投与の必要を省いています。 私たちが継続的に動物モデルを信頼し続けるため、糖尿病はいまだに大部分が驚くほど不可解です。より厳格に管理されなかった治療プランを超えて、インシュ リン投与は利点を提示しているが、多くの臨床医は、厳しいブドウ糖のコントロールをすべきだと信じています。しかし、インシュリンは糖尿病の治療薬ではな く、処置でしかありません。また、インシュリンが血糖量を抑制する正確な生化学的プロセスはまだ知られていません。
実は、20世紀の前半を通して、動物実験はこの必要性の高いワクチンを遅らせたのです。 ポリオは1835年にはじめて発生し、犠牲者はすぐに手足などが麻痺し、死に至ります。1840年にある整形外科医は脊髄が感染源であると記していますが、この仮説が証明されるのは23年後です。 1908年に、科学者はウイルスが原因であり、ワクチンで撲滅されるであろうと主張しました。ワクチン開発の際、どのように感染源が体に入り、定着するの か明らかにすることが非常に重要です。その過程を明らかにせずに感染を防ぐことはできません。早くても1912年に、病理学者はヒトの腸内でポリオウイル スを発見し、消化経路を通してヒトの体内に入るのだと主張しました。 一方、研究者は動物をポリオに感染させる事に成功しました。この”偉業”が、有効なワクチンの発達を何十年も先に伸ばす事になるのです。結局のところ、私 たちの近い種類である猿は鼻から感染し(消化システムを通さない)、ウイルスは直接鼻から脳に移動しました。愚かにも、科学者たちはヒトの消化器官のデー タを無視し、猿のデータを選んでワクチンを作りました。 1934年に猿の細胞から製造されたポリオワクチンが発売されたので、ポリオワクチンが動物実験に由来するものだと動物実験支持者が主張することは間違い ではありません。ただし、麻痺12名、死亡6名と言う結果に言及し忘れています。1937年、猿のようにヒトも鼻の粘膜を通して伝染するとしたら、鼻腔内 でウイルスを死滅させることができるからと、子供の鼻に亜鉛酸硫酸やピクニン酸硫酸アルミニウムを吹きかけるという結果に、動物実験は科学者を導きまし た。結果は、数人の子供が嗅覚を永久に失っただけでした。1941年、最初の動物実験の30年後、Albert Sabin医師は、検死でヒトの鼻の粘膜にウイルスはいなかったと立証する発見をした。彼が発見したことは、ウイルスは胃腸の管に限って存在していること であり、30年近く前に明確にされていたことでした。数年後、Albert Sabin医師は、ポリオの猿モデルの愚考を思い起こしました。: 「ポリオによる麻痺患者は、大量の運動神経細胞が取り返しのつかないほど破壊されることを予防する事によってのみ処理され、予防の研究は、猿の実験病理モデルの誤認に基づいて行なわれ、ヒトの病気の自然な考察を誤ったことで長く遅らされた。」 1949年、John Endersは細胞組織内でウイルスを成長させました。これがワクチンへの道を開く事になったのです。この成功のために1954年、生理学、医学でノーベル賞を授与しました。 ワクチンは非動物組織から製造することができるが、製造者は替わりに猿の腎臓を選びました。高齢の動物を元にしたワクチンは生きたウイルスを含んでおり、204名の人々がポリオにかかり、11名の死亡が確認されています。 現在、ポリオワクチンは、動物組織の代わりにヒトニ倍体細胞の培養で作られています。
実際は、この重要な薬の発展を動物実験が妨げたのです。 1929年、Alexander Flemingはペニシリンがペトリ皿上でバクテリアを殺すことを発見しました。同じ現象が起こることを期待し、わくわくしながらバクテリアに侵されたウ サギにその化合物を投与しました。不運にも、ペニシリンはウサギの感染には効果がありませんでした。(現在では、ウサギは尿ですぐペニシリンを排出してし まうため、薬が排出されるより先に働かないと分かっている)組織的治療として役に立たないことをウサギが”立証”したので、失望して、Flemingはこ の薬を10年間も放置しました。 何年も後、他の全ての治療で効果がないと分かり死期の近い患者を受け持った際、彼はこの薬について考えました。 必死になっ て彼はペニシリンにたどり着き、そして奇跡が起きたのです。 後は知ってのとおりです。Flemingは彼の発見は幸運だったと考えました。 もしもFlemingが初期テストをモルモットやハムスターで行なっていたら、ペニシリンは彼らを死に至らしめてしまうので、ペニシリンを見逃したかもしれないのです。 Flemingは後に学生にこう語っています。 「1940年代にこの動物実験を行なわなくて本当に幸運だった、もし行っていたらペニシリンはおそらく二度と許可を受けないだろうし、抗生物質の全ての分野は認められていなかったかもしれない。」
大部分はそうです。 しかし、決してそれは発見が動物抜きでは生じなかったということを意味しません。 単に、実験動物市場が繁栄し、彼らを雇うことが容易だっただけだということです。 さらに、19世紀後半から、動物実験は全ての医学カリキュラムの一部になりました。 従って、研究者は単位を取得するために動物実験を行わなくてはならなかったのです。 しかし、その実験がノーベル賞受賞という結果に直接結びついたと推定す ることはほぼ間違っています。ノーベル賞受賞という結果のために使用されたそこでの動物の実例は、必要ではありませんでした。 ノーベル賞受賞者がその後 語ったように、動物組織の研究は慣行だったが、ヒト組織は利用可能でより実行可能でした。
「癌戦争」はニクソン政権以来続いており、動物の癌に関する情報は量が肥大しているが、研究者はいまだその戦争 に勝っていないのです。 実際、癌による死亡はこれまでよりも高くなっています。私たちが未だに癌による死亡を食い止められない重要な理由の一つは、これで す・・動物の癌は人間の癌と同じではないこと・・・癌は一つの疾病ではありません。たくさんあります。人間だけでも、別々の器官、組織、細胞を苦しめる癌は200以上の異なる形式があります。同様の動物の 器官、組織、細胞は癌のようなものになるかもしれないが、その癌は決して人間の癌と同一ではありません。 癌にかかりやすいのは遺伝かもしれません。露光や食事、ライフスタイルはさらに発生率を増加させます。擬似人間に動物を変化させるため、研究者は人間の遺 伝子を彼らに注入し、そして既知の人間の発癌性物質を彼らに与えます。ここでのキーワードは、「知られている」です。私たちがもし物質や食事、ライフスタ イルが発癌要因である重要な人間の証拠を既に得ていたとしたら、なぜ動物でそのエピソードを繰り返すのでしょうか? どんな場合でも、異なる物質は全ての種に必ずしも発がん性はありません。人々はラットとマウスが同じように癌になるのではないかと考える、両方の種に行 なった研究では、ラットで癌が発生したと分かった化学物質の46%が、マウスでは癌は発生させなかったことが分かりました。ラットとマウスのように近い関 係にある種で、同じようには癌は発生しないので、人間に癌を引き起こすと知られている20の合成物のうち19の合成物が動物に癌を発生させたことは驚くこ とではありません。国立癌研究所は、人間で成功して既に使われている12の異なる薬で、48の異なる「人間」の癌を育てていたマウスを扱いました。48の うち30で薬は作用しませんでした。マウスモデル時の63%が間違っていたのです。 国立癌研究所は更に、抗悪性腫瘍の事業のため、動物で40,000の植物類をテストし、25年をまたがるプログラムに着手しました。このとても高価な研究 から、たくさんのポジティブな結果が動物モデルで浮上しましたが、人間のためには抗悪性腫瘍薬は一つも誕生しませんでした。結果として、国立癌研究所は現 在、細胞毒素の検査に人間のがん細胞を使用します。 Richard Klausner博士は国立癌研究所自体の所長はこう述べています。 「癌研究の歴史は、マウスの癌の治療の歴史でした。私たちは何十年もマウスの癌を治療してきた・・・そしてそれは人間には全く役に立たない。」
過去20年以上、動物にAIDSを感染させようと何十億ドルも費やしてきました。そしてその努力は全く役に立ち ませんでした。研究者はHIVでチンパンジーを感染させる事に成功しましたが、どれもAIDSまでは進行していません。適切な動物モデルの生産能力がない ことがわかっているのに、動物実験がこの恐ろしい病気の治療や処置を導き出すだろうと仮定することは愚かです。AIDSコミュニティーのいくつかは、不安 定な状態の命で、この結論に達しており、動物実験に対する政治的な抗議を行なっています。チンパンジーモデルを支持した科学者でさえ、今は科学的な長所の 欠落を熱心に批評します: 「チンパンジーモデルは科学コミュニティーで多くの指示を得られない。」 「私は、特に有効なモデルであると私たちを確信させたチンパンジーの働きから何かが生じているようには見えない・・・発達するのに12~14年かかる「動物モデル」は、理想的ではないようだ。」 実験動物科学にAIDS研究費用を投資することは無駄であり、AIDS患者の病は続きます。とにかく、動物はAIDS治療やワクチンの発達のためのただひ とつの実験台ではないのです。世界中で3400万もの人がHIVに感染しています。この人々からの血球は、私たちが最も注目すべき研究資料として役立ちま す。 動物実験ではなく、人間の血球についてのin vitro研究は、以下の特質を明らかにしました。人間のHIVの作用は、ヘルパーT細胞と呼ばれる人間の白血球の側面に、とても特異的で極めて小さく依 存します。この細胞はレセプターと呼ばれ、表面に門脈をもっています。これらのレセプターは、ウイルスが繁殖する白血球内にHIVを受け入れるため、精密 なたんぱく質と同時に機能します。なぜヘルパーT-細胞がHIVに侵されたチンパンジーや一部の人間でさえAIDSに進行しないのか理由を明らかにするレ セプターは非常に種特有であり、時には種の中でさえも異なります。 AIDSに進行しないHIVに感染した人間は、病気を打ち消す適切な方法へのとてもよい見通しを提示します。その主体は疫学的に派生し、in vitro研究はその免疫の原因だと考えられたヒト遺伝子を分離させました。HIVゲノムの配列も、in vitro研究によって遂行されました。動物実験コミュニティーは、AZTや他の抗AIDS治療は、動物実験の結果として開発されたと主張します。しか し、これら薬の開発の歴史を注目すると、それが反対であることが証明されます。全てのこの人間のデータが、HIV治療の開発と、ワクチン作成の努力の成果 を、信頼できるものとして報告します。 AIDSは人間の細胞レベルで殺傷し、そしてそれは研究が必要な場所です。ある科学者によると、”私たちがAIDSの病原を理解し、私たちがそれを防ぐた めのワクチンと治療を得た”後に、動物モデルは有用であると知る事になるでしょう。もし既に治療法を得ていたら、なぜ私たちは動物モデルを必要とするで しょうか。
Karnofskyの法則と呼ばれる原理は、開発中、もし正しい方法で、正しい種に正しい段階で与えられれば、 どんな物質も奇形起因(先天性欠損症を引き起こす)になり得るというものです。普通の食塩や水でさえ、もし、あり余るほど多い量を脆弱なときに与えられれ ば、ある種の奇形起因物質です。言い換えれば、薬物治療は全て、命あるものにとって先天的欠損症を引き起こすことができるのです。莫大な量の実験がこの法 則を支持しています。 データは、与えられた化学薬品によって全ての種が奇形起因の影響を等しく受けやすいわけではないという事実も支持しています。同様に、ある種において奇形 起因である薬品は、他種ではほとんどもしくは全く奇形作用はないかもしれないのです。評価の高い先天的欠損症状の論文によると、「物質は多くのメカニズム によって胎盤の薄膜と交差するため、奇形起因薬への種の反応におけるいくつかの違いは、胎児への薬物の影響の受けやすさによるかもしれません」。the New England Journal of Medicineによると、動物で先天的欠損症を引き起こす1200以上の試験済み化学薬品のうち、たった30だけが人に欠損症を引き起こします。 実験動物で先天的欠損症を引き起こしたとされる、とても安全で役に立つ薬品: ・ Lovastatin ・ Chondroitin sulfate コンドロイチン硫酸塩 ・ Acetazolamide ・ Dichlorphenamide ・ Ethoxzolamide ・ Methazolamide ・ Furosemide フロセミド ・ Clonidine クロニジン ・ Diazoxide ・ Hydralazine ヒドララジン ・ Reserpine レセルピン ・ Guanabenz ・ Diltiazem ・ Nifedipine ・ Codeine コデイン ・ Hydrocodone ・ Hydromorphone ・ Meperidine (Demerol) メペリジン・デメロール ・ Morphine, モルヒネ ・ Oxymorphone オキシモルフォン ・ Phenazocine フェナゾシン ・ Propoxyphene プロポキシフェン ・ Colchicine コルヒチン ・ Allopurinol ・ Aspirin アスピリン ・ Acetaminophen アセトアミノフェン ・ Other non-steroidal anti-inflammatory drugs他の非ステロイド抗炎症剤 ・ Enflurane ・ Ether エーテル ・ Halothane ハロセン ・ Isoflurane ・ Nitrous oxide亜酸化窒素 ・ Sevoflurane ・ Procaine プロカイン ・ Corticosteroids ・ Ampicillin アンピシリン ・…
薬(西洋医学の医薬品)はほぼ必ず副作用があります。同じ人間でも個人によって安全性は異なります。 しかし、もし動物実験段階が省かれたとしたら、薬は今よりはおそらく安全になるでしょう。 現在、年間で、合法の薬は、違法の薬を全て合わせた数よりたくさんの人の命を奪っています。 薬は実験動物から薬瓶に急に飛躍しないことを認識することが最初に重要です。薬を設計するには4つの方法があります。科学者は下記方法の内の一つから始めます: *自然界から新しい物質を発見する *既存の治療法に異なる治療価値を発掘する *同類の治療法の化学構造の修正 *予期される化学反応に基づいてゼロから新しい治療法を設計する 一旦研究者が物質の有用性について学説を立てると、動物でそれが働くかどうか確かめるためにその物質を投与します。テストされた種で物質の有効性に関する 多くの反応を得ます。通常、肯定的な動物の結果は、実験動物の結果と人間への治療の間の決して架かることのない巨大な架け橋についてほんの少しだけ言及 し、一般大衆へ報道されます。この段階では、私たちの新陳代謝が独特なので、人に投与できる物質について信頼できる情報はありません。 物質を動物実験に委ねることで、予測される人間への作用と副作用を明らかにすることを目指しているが、非常に頻繁に、結果は種の間で劇的に異なります。多 くの人の命を救う物質は、動物には有害であるため承認されません。そして動物で治療力のある物質が認可され、次に人の健康を害し、あるときは死に至らしめ ます。人間の消費者を保護する代わりに、動物実験は誤った安全性の感覚を作り出しているのです。 この証拠は、薬品開発の歴史のどんなに綿密な評価においても明白です。アスピリン、アセトアミノフェン(タイレノール)やイブプロフェン(アドビルまたは モトリン)を含む最もポピュラーな多くの薬は、動物にとって全く有害です。利尿の薬物療法、高血圧症の治療における主要な方法は、動物実験が猛威を振るう 前は普通に使われていました。何百万人に安全に使われていたこれらの薬の多くは、今日の義務的なマウステストをパスすることは難しいでしょう。 動物実験が多くの必要な薬品を得ることを妨げていると言う正当な懸念があります。-ある科学者はこう述べています: 「・・・非常に大多数の疾病の実態のためには、動物モデルも存在しないし、本当にとても粗末なものだ。一般に使用される動物モデルに反応しないために、有用な薬を見落とすことがある。」 無数の動物実験済みの薬が市場で売買され、そして問題が生じます。合法な薬によって一年でおよそ100,000人が死に、全ての入院のおよそ15%がマイ ナスの薬品反応によるものだ、ということはよく認められています。10年間で、新しく承認された全ての薬品のうち半数以上が、厳しい予測されなかった副作 用のため、二次的にFDAによって取り消しされたかラベルを張り替えられました。これらの薬の全ては広範囲の動物実験を経たものでした! 明らかに、動物実験実施要綱は人の安全性に反して働いています。さらに、価値ある研究費用を、信頼性のある人間に基づいた試験方法論から遠ざけています。
*人体への危険* 「動物実験によって安全性を確かめられる」ことはありえない。もしそうであるなら、薬害は起こりえないだろうが、現実には薬害は非常に多い。動物のデータを人間に当てはめる際の「安全性」は「推測」である。薬害はその「推測の安全性」の犠牲である。 *動物実験は税金の無駄遣い* 以下のデータは悪性新生物が原因での死亡数の推移である。過去50年間増加し続けていることが分かる。これが、癌研究に莫大な税金を費やした結果である。動物実験に費やされる税金を、予防、疫学や環境整備、汚染防止に切り替えるべきである。 *動物の権利* 被実験動物に権利はないのだろうか。 実験者の使う言葉を発することができないこと、人間より弱者であること、以上の理由で「人間の利益のため」に健康体であるにもかかわらず、苦痛を与えられ、その命を絶たれる。被実験動物にとって、それは虐待であり、拷問である。どんなすばらしい言葉で正当化しようとも、動物にとっては虐待以外の何物でも ない。 ナチスの基本的思想の一つに「人種主義」がある。高等な人種と劣等な人種を区別し、差別したのである。日本軍七三一部隊にも同様の思想があった。現在動物実験を支持もしくは黙認する人々は、同じ論理で話をすることが多い。人種差別ではなく種差別の思想に基づく論理である。 人体実験同様、動物実験も許されるべきではない。 *動物実験の利益享受者* 動物実験によって利益を受ける人がいる。知的好奇心を満たし、論文を発表し、地位や名誉を手に入れ、それによって金を手にする人々がいる。その人々のためだけに、薬害の犠牲者になる人が居り、拷問されて殺される動物がいる。
この質問は種差別をもとにした考え方からくるもので、アニマルライツの考え方とは異なるものです。人権は大切です。そしてそれと同様に動物の権利も大切だと主張しているのであって、それらを比較してどちらか一つを選択するものではありません。 動物の権利を認めれば、人は生きていけないのでしょうか? 女性の権利が認められたとき、男性は暮らしにくくなったでしょうか? 動物解放の運動は、人を否定するものではありません。人か動物かという二者択一をせずに、動物と人が穏やかに共存できる社会をめざしています。
肉食動物は生きるためにはほかの動物を殺さなくてはなりません。一方、人間には殺さなくても生きる術を持っており、選択が可能です。雑食動物である人間は肉を食べなくても生きていけるのです。 倫理的な選択ができる点で、人間はほかの動物と異なっています。自然界では動物は人間を殺して食べることがあります。では人間が人間を殺して食べることが許されるでしょうか。もちろん許されません。 動物の権利を主張する私たちは、人間が人間を殺して食べないことと同様に、苦痛を感じる能力を持つ動物を殺して食べることも倫理的なおこないではないと考えます。人間には別の選択肢があるからです。 また、人間は動物を殺す手段を持っていますが、何かができるかということと、それをおこなってもよいということは異なります。強い力を持つということは、より強い責任が生じることだととらえるべきです。
この質問は、動物の権利への反論としてよく利用されます。容量に限りのある救命ボートに、人と動物とどちらを載せるべきかというものです。 回答内容は人によって異なると思いますが、動物の権利を支持する人も、他の人達と同様に、おそらく自分自身の愛着が強い方を助けることでしょう。また、おそらく可能であるなら両方を助けるでしょう。 そして緊急事態ではなく、通常時であれば、人間の権利も動物の権利も守ることを選択します。 非常にナンセンスな質問であるにもかかわらず、しばしば尋ねられます。しかし、このような、緊急時に状況を限定して、人の感情や愛着の強さに左右される質問は、アニマルライツの考え方を理解する助けにはならないでしょう。 この質問に対してどう答えたとしても、工場畜産や毛皮生産が廃止されるべきものであることに変わりはありません。
まず、その動物が死んだ理由が、その死体を利用するためであれば、その答えは当然「利用してはならない」となります。 つまり、たとえば家畜を食べる目的で殺し、それを殺したのは自分自身ではないがその死体(肉)食べる消費者も、動物の遺体の利用者になります。これはその動物の権利を迫害し、苦痛を与え、殺していることになります。 毛皮を剥がすために殺し、その死体(毛皮部分)を利用する消費者も同様です。 この質問はもうひとつ別の解釈ができます。たまたま交通事故死や自然死した動物の死体を利用してよいか、という解釈です。 この場合は利用しても道徳的に問題はないと考えます。 ただ、あなたは人の遺体を何かに利用しますか?たとえば医学的な発展を望んで死後行う献体は、生前に本人の意思が必要あれば可能ですが、それ以外は日本では利用しません。これは道徳的に利用しないのではなく、美徳(遺族の気持ちなども察して)として利用していないケースが多いように思います。 自然死した動物の死体であっても、利用しないという人もいます。これは自然死した動物の死体を利用することが日常化し、いつの間にか動物の死体への需要が高まり、その結果、その需要のために動物を殺す仕組みが出来上がっていってしまうということが、往々にあるためです。 動物の死体を利用しなくてよい社会は、人類の発展とともに生み出されてきた代替素材を利用することで、実現ができます。
宗教ではなく、倫理観の問題です。 宗教の定義:(三省堂辞書) (1)神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき。また、神仏の教え。 (2)〔religion〕経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や存在に対し、積極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系。 一方、アニマルライツとは、種差別をなくし動物たちには人間から虐待や搾取されず、自然の生活をする権利があるというものです。 これら2つの定義には明らかな違いがあります。 動物の権利運動は、何かを信じて自らの安らぎを得ようとする運動ではなく、またあがめる対象があるわけでもありません。 アニマルライツとは?
人の価値観は多様です。その価値観の多様性を認めることはとても大切なことです。しかし、すべての価値観は、個人的な意見のひとつに過ぎず、絶対的価値を持つものでもありません。もし人それぞれの価値観すべて否定しないのであれば、人身売買や殺人、奴隷制度、人種差別、性差別なども否定できないということになります。また、「奴隷制度が合法的だった時代には奴隷制度は奴隷制度を肯定する価値観は正しく、奴隷制度が違法になったら正しくなくなる」というものでもありません。 価値観の多様性があることは認めても、そのすべての価値観が道徳的であり正しいとは限りません。また、現在社会の大多数が容認していることであっても、それが正しいとも限らないのです。 動物の権利は、動物の本来の生き方を認めるべきだと主張し、人間が動物を搾取、虐待することを非難します。種差別に反対する動物の権利運動は、奴隷制度や人種差別、女性差別に反対し、新しい価値観を広めてきた運動と同じ流れにあるのです。
署名などは、街頭で集団で集めるのではなく、個人で友人知人などに署名を集めていただいています。 チラシを大学におかせていただけたらとてもうれしいです。「仕方がない。人間のためだからいいじゃないか」と正当化する人の少ない若い世代に知っていただきたい問題です。 また、インターネット上でも、アニマルライツセンターのサイト(公式サイトおよびキャンペーンや問題別サイト)にリンクを貼るなども重要な活動です。 その他、お住まいの地域でチラシ配りやキャンペーンを行う、パネル展を行うなど、あなたの自主的な活動を支援しています。ご相談ください。
もちろんです! 休日にチラシ配りなどキャンペーンをしますので、むしろボランティアは休日中心になります。ぜひお願いします。 東京近辺にお住まいでしたら、毎月第一土曜日13時からに事務所でボランティアミーティング(定例会)を開いておりますので、お気軽にお越しください。
これはよく言われます。しかし、私たちがウェブサイト等で公開している映像は、現在も行われている紛れもない事実です。そしてこれらの映像に映された『過激な』行為に私たちは反対しているのです。 物事に反対する際には、まずその事実を知ることが必要です。また、工場畜産や動物実験、生体販売を支えているのは、現在の日本社会であり、(知る知らないに関わらず)これを受け入れている人々なのです。ですから、私たちはまずこの実態を多くの人に知らせる必要があると考えています。 見るのがつらいからといって、動物の苦痛を心の隅に追いやり無視することは許されません。なぜなら、そうしたところで動物の苦痛は減少しないからです。見るのがつらい行為がなくなれば、それは負の歴史となり、もう繰り返されないものとなって見る必要もなくなるでしょう。 映像が見るに耐えないのであれば、その行為を批判してください。そして何よりも、その見るに耐えない行いの共犯者にならないでください。 アニマルライツセンターのウェブサイトやパンフレット等では、内部告発による画像や映像、毛皮産業の実態を記録するために従業員になったり、動物の扱いを明らかにするために何らかの手段により企業や研究機関の内部に入ったりして撮影した画像や映像も用いられています。 アニマルライツセンターは建物への侵入など違法行為を助長する考えはまったく持っていませんが、そのような行為の結果として明らかになった情報をどう扱うかは慎重に判断する必要があります。 そもそも「隠し撮り」をしなければならない理由は、動物を虐待している企業や施設が真実の情報を公開していないからです。 どのような手段であれ、いったん記録され公開された動物虐待の画像や映像は、いまも同じような状態に動物たちが置かれ虐待され続けていることを強く示しています。 私たちは動物を扱う企業や施設に真実の情報を明らかにするよう常に要求していきますし、公開要求に応じて、あるいは自ら積極的に公開することにより動物を虐待していないことが判明した場合には、その画像や映像に見られる虐待行為は過去のものとして扱います。 そうでない場合には、私たちはそのような虐待行為が現在も続いている可能性が高く、それに対して抗議しなければならないと考えます。そのために、画像や映像を用いていきます。 組織内でしか知りえない不正行為に関する内部告発を支持する現在の世論は、動物虐待を明らかにしていくという上記の私たちの見解を後押しするものだと考えます。
たしかにこの運動は、現在の社会のあり方に大きな変革をせまるものではあると思います。現時大勢を占めない思想や運動は、異端視されがちです。例えば第二次世界大戦のときに、日本をそこから離脱させようと考え行動する人は非国民とさえ呼ばれましたが、敗戦後まったく評価は変わります。 そして、きっと私たちのひ孫は、私たちを過激な集団とは思わないでしょう。 日本における動物の権利擁護運動では、過激と思われる運動はおこなわれていません。アニマルライツセンターは、いたって穏健なパネル展を中心とした啓発、許可を取った上でおこなうデモ、要望書の提出、動物の保護、話し合いといった活動をおこないます。例えば人に危害を加えるような場合には、それを非難します。
過激という言葉が使われることがありますが、私たちは「動物と穏やかに共存する社会」をめざし、命の尊さを訴え、個々の生き物を尊重することを主張しています。 アニマルライツセンターのウェブサイトには多くのショッキングな映像が掲載されていますが、その映像に映し出されたものは、すべて私たち人間が、弱い立場にある動物に押し付けている現状であり、私たちの生活の裏にある現実です。 そのショッキングな現状を生み出しているのは、あなた自身かもしれません。 私たちはこのような現実をとらえた映像を配信していますけれども、事実を知らせることは決して「過激」なことではありません。 現実を見て見ぬふりをし、その現状を放置し続ける生活を送ることのほうがより「過激」なのではないかと思っています。
自然界では、いろいろな動物や植物が互いに影響を与えながら生活しています。微妙な自然界のバランスを人間の身勝手な行為によって破壊してはなりません。すべての生き物は、等しくこの地球に生きる権利を持っているのです。 動物たちには、人間から虐待や搾取を受けずに、自然のままに生活をする権利があります。基本的人権が尊重されるのと同様に、動物にも動物らしく生きる権利が認められるべきであり、種によってその権利は左右されるべきではありません。 ゾウにはゾウらしい生き方、ニホンザルにはニホンザルらしい生き方、豚には豚らしい生き方、魚には魚らしい生き方、人には人らしい生き方 があります。 そしてゾウにはゾウの能力や特性があり、ニホンザルにはニホンザルの能力や特性があり、豚には豚の能力や特性があり、魚には魚の能力や特性があり、人には人の能力や特性があり があります。 このあたり前のことを認め、その動物の生き方、能力、特性を尊重していくことは、ごく当たり前のことではないでしょうか。人と異なる能力や特性や形を持つからといって、その動物を差別し、支配してはならないのです。 この自分と異なる能力、特性、形を持つ動物を差別することを、種差別(スピーシーシズム)と呼びます。 「人の利益が優先されるのは、人は理性を持っているから、他の動物を能力的に上回っているから、言葉を話すことができるからetc.」と言う主張は、人の利益や搾取の現状を維持・正当化し、他種の動物の利益を犠牲にするために使われてきました。 皮膚の色や性別の違いがいのちの質にとって重要でないのと同様に、毛の長さや形の違いも重要ではないのではないでしょうか。また、人間であろうとなかろうと、精神的にも肉体的にも苦痛を感じる動物が存在します。 アニマルライツ運動は、種差別に反対し、人に与えられる基本的な権利を種の壁を越え、動物にまで広げ、理由をつけて動物を使ったりせず、同じ地球に生をうけた生物として他の仲間に対してその生き方や能力、その動物らしさを尊重していこうという運動です。
動物の権利論では、苦痛を感じる能力があることが重視されます。そして、苦痛を感じるための感覚器官や神経組織、脳を備えていることが一応の判断基準となります。さらに、種々の感情や欲求を持つこと、知覚、記憶、未来の感覚があることなども考慮されます。 そうした能力や感覚は、細菌には明らかに存在しませんが、哺乳類や鳥類には確実に存在します。魚類についても、やはり苦痛を感じているという研究が最近出てきています(参考:ヴィクトリア・ブレイスウェイト『魚は痛みを感じるか?』, 高橋洋訳, 2012年, 紀伊國屋書店)。軟体動物や昆虫などの節足動物については、議論が分かれています。 したがって動物の権利論は、哺乳類や鳥類、魚類について、人間に利用されたり殺されたりせず、なるべく自然のままに生きていく権利を求めることが基本となります。 では、軟体動物や昆虫はいくらでも利用したり殺害したりしてよいのでしょうか。そんなわけはありません。どんな生物に対してであれむやみに生命を奪ってはいけないという人間の持つ自然な感情を、動物の権利論は尊重します。 それではさらに、植物はどうなのでしょう。植物は苦痛を感じないのでしょうか。植物はいくらでも犠牲にしてよいのでしょうか。これについては、「植物は食べてもかまわないのですか?」の項目でみます。
植物には脳が存在せず、痛みを伝える神経組織の存在も確認されていません。したがって、植物には痛みを感じる能力はないと考えられます。少なくとも、哺乳類や鳥類が感じるのと同じような仕組みでは、「痛み」は感じていないでしょう。 苦痛を感じる能力を重視する動物の権利論においては、植物は権利を与えるべきものとしては扱われません。 では、植物はいくらでも犠牲にしてよいのでしょうか。そのようにも思えません。苦痛を感じているかいないかに関わらず、生命を大切にしたいという自然な気持ちを人間は持っています。動物の権利論は、そのような人間の感情を大切にします。 植物の犠牲をなるべく少なくするためには、どうすればよいのでしょうか。そのためには、ベジタリアンになることが有効です。例えば牛肉1kgを生産するためには、牛に食べさせる穀物が10kg程度必要だとされます。穀物の犠牲や、穀物を生産する際に駆除される昆虫の犠牲を減らすためには、穀物を牛に食べさせて、その牛を人間が食べるのではなく、人間が穀物を直接食べるほうがよいことになります。 植物の犠牲を本当に減らしたいのであれば、なるべく肉を食べない食生活にするほうがよいでしょう。それはそのまま、動物の犠牲を少なくすることでもあります。
例えば、二酸化炭素の排出増加による地球温暖化は、人間が多少とも化石燃料を使っている限り、完全に防ぐことはできないかもしれません。しかし、「温暖化を完全に防ぐことはできないから、温暖化対策などまったく必要ない」と考える人は少ないように思います。多くの人は、少しでもエネルギーを節約したり、代替エネルギーの開発に賛同したり、温暖化のスピードを緩めるためにできるだけの努力をするでしょう。 動物の権利をまもる運動を進めても、各自のライフスタイルをなるべく動物の犠牲が少ないものに変えていっても、人間により犠牲になる動物が完全になくなるかどうか、確実なところはわかりません。 しかしそれでも、そのような運動やライフスタイルの変更により、犠牲となる動物を減らすことができるのは確実です。苦痛を感じる存在に対して、なるべく苦痛を与えないようしていくことは、正しいと考えます。
動物愛護は、動物に関心の強い人が、動物への虐待や非倫理的扱いなどから動物を守ることです。 愛護という言葉は、その対象物を好きか嫌いかという人間の感情をもとにした言葉です。 一方、動物の権利運動は、好きか嫌いかが問題なのではありません。例え動物が嫌いであっても、人間という種に属さないという理由で、その動物の生きる権利を奪うことも、その動物を虐待することも倫理的には許されないという考え方です。 現在日本では「動物愛護」という言葉が多用されていますが、聞こえのいいその言葉は、しばしば動物を搾取し動物の権利を奪うことを正当化するためにも使用されます。 例えば日本の犬猫の殺処分施設は「動物愛護センター」の中に作られています。また、動物実験を行う人も、動物を商品として売買している人も「動物愛護精神をもって」動物を利用しつづけます。 動物を搾取する現状を維持するために、その現状をオブラートに包むための言葉として使われることもあることを市民は認識しておく必要があります。
動物の福祉は、人が動物を利用することは否定せず、しかし、利用する際には動物に対してよりよい扱いを求めるという考え方です。 アニマルライツ運動のように、人が動物を搾取し利用することを否定するものではありません。 動物福祉という言葉も、やはり動物を利用する立場の人によっても多く使われています。
まず、人間は自然に反し、動物と共存すべき環境を破壊し、動物を人間のために従属させ、動物の苦しみを無視し搾取しています。この質問(意見)は、これらを当然のこととした考えのもとに成り立つ質問です。 現在日本人が当たり前のように享受している「権利」を思い浮かべてください。人間らしく生きる権利 他人に財産を侵されない権利 職業を選択する権利 裁判を受ける権利 などなど・・・そしてもっと基本的な権利の中には、他人に命を脅かされない権利 誘拐されない権利 監禁されない権利 食用に繁殖させられ殺されない権利 人体実験に使われない権利、家族と暮らす権利 売買されない権利などがあります。現在、日本人にとってこれらは当たり前であり、ことさら「権利」として言われるものではないかもしれませんが、現在でも人間は動物の命を脅かし、誘拐し、監禁し、食用に繁殖して殺し、動物実験に使い、親から子を引き離し、売買しています。 次に、義務を果たせないことが権利を享受すべきではない理由にはなりません。幼児や、あるいは重度の障害をもった人たちが権利を認められないと言えるでしょうか。こうした人たちを監禁し、安全性を確かめるための実験に使うことが許されるでしょうか。許されるはずがありません。 *注* 動物の権利というのは、動物に対して人間のもつ全ての権利を認めること(例えば参政権や、教育を受ける権利など)を意味しているわけではありません。 最後に、動物は地球上でさまざまな役割を果たしていることを付け足したいと思います。
FAOやOECDなどのデータは、今後人口の増加と共に肉食の量も増えていくことを示しています。動物の畜産利用、動物からの搾取をこの先すぐに無くすことは無理だろうと私たちは予測しています。 この先も当分の間は、何憶何兆もの動物が、畜産利用され殺され続けます。そう考えた時に、彼らの苦しみを少しでも軽減するために動物福祉の運動も必要だと考えています。私たちが行う動物福祉運動には、ケージや妊娠ストールなどの監禁飼育の廃止を働きかけたり、淘汰方法や屠殺場での動物の扱いの改善を求める活動があります。 私たちの目指すのは、畜産や娯楽における動物利用の廃止、動物搾取の撤廃、つまり動物の解放です。 しかし、アニマルライツ運動とは、自分のやりたいことをやるのではなく、動物にとって最善の行動をとることです。わたしたちは、動物にとって何が最善かを考えた結果、動物福祉と動物解放(アニマルライツ)運動を並行しています。 動物の苦しみを無くそうという運動は世界中で多くの団体、個人がおこなっています。私たちと同じように動物福祉と動物解放を並行した運動方法をとっているところもありますし、動物福祉だけの運動、あるいは動物解放だけの運動のところもあります。 今はまだ、どのやりかたが正しく、どのやり方が間違っている、ということを議論する段階ではありません。動物の犠牲の数はあまりにも多く、動物のために声を上げる人はあまりにも少ないからです。
アニマルライツセンターは、人間の娯楽のための動物の利用や、動物実験、工場畜産など、動物の権利が侵害されている問題に対して、動物がみだりに傷つけられたり、殺されたりせず、自然に近い形で生きていけることを目的とし、以下の活動に取り組んでいます。 1.動物実験の廃止。 2.工場畜産の廃止あるいは大幅な縮小。 3.野生動物の商業的利用の全廃への取り組み。 4.保護動物たちの悲惨な現実を明らかにし、改善したりなくしていくこと。 私たちの活動は、暴力をなくす運動ですので、将来的には人間の平和にもつながる活動です。 WEBサイトをご覧下さい。 また、ご住所とお名前をお知らせいただければ、アニマルライツセンターの会報をお送りすることもできます。アニマルライツセンター オフィシャルサイト 動物実験は要らない NO More Animal Tesitng 医学的見地から動物実験に反対する 犬や猫に権利を!犬猫の問題について 畜産 食生活を見直そう 菜食御用達リスト ベジタリアンレストランガイド 肉食.com 環境・飢餓・健康から肉食を考える 毛皮は要らない 毛皮反対サイト 毛皮反対デモ行進 中国毛皮産業の実態
アニマルライツセンターは特定非営利活動法人として活動を行っています。 運営はNPO法人として毎年正会員で総会を開いておりその場で重要な決定を行っています。また会計、事業報告書は毎年東京都に提出を行っています。 また、運営は寄付金と会費で賄われており、国等行政からの助成金は一切得ていません。 運営方針: アニマルライツセンターには主な方針を決める理事が5名以上、監査が1名以上います。そして正会員は決定権を持っており、会員一人一人が活動を進めていきます。動物の問題は非常に多岐にわたっており、山積みになっています。ひとりが活動しようと一歩踏み出したとき、その問題・事件・プロジェクトについてのリーダーがうまれます。 アニマルライツセンターは「何かをしてくれるところ」ではなく、動物への善意を形にできるような社会にみんなで向かっていく団体です。
1987年に神奈川のメンバーを中心に発足しました。 犬猫の殺処分、不妊去勢運動、被災動物保護、馬の問題、動物の売買の問題、動物実験、毛皮、畜産など、様々な問題を取り扱ってきました。 こちらのアニマルライツセンターについてをあわせてご覧ください
まずはアニマルライツセンターにメールをお送りください。また、一番取り組みたいと思う問題などを教えてください。 そして、あなたの得意分野や技術を生かした方法をご提案ください。受け身ではボランティアは成り立ちません。ぜひ積極的な行動をお待ちしています。 さらに、会員になってアニマルライツセンターでプロジェクトを推進してください。
苦痛を感じる能力があること(そのための感覚器官や神経組織、脳を備える)をはじめとして、感情や欲求を持つこと、知覚、記憶、未来の感覚があることなどを基準に、そのような動物にはなるべく自然のままに生きる権利や、人間に危害を加えられない権利があり、人間はそれらの権利を守る義務がある、という考え方です。苦痛を感じる能力のある動物に対して、苦痛を与えることをなるべくやめていきましょう。そのためには、動物を犠牲にする私たちのライフスタイルを変えていく必要があります。 苦痛を感じることのできる相手に対して、あえて苦痛を与えたいと思う人は少ないはずです。そのように配慮する対象を人間に限るのではなく、動物にも広げましょう。動物愛護法のよい側面を、さらに多くの動物へ。
ARCの活動は、すべて会費と寄付で支えられています。 現在アニマルライツセンターでは、毛皮反対の活動、動物実験廃止に向けた様々な運動、動物病院問題の解決に向けた根本的取り組み、工場畜産の改善と縮小をめざす運動、行政による犬猫殺処分のゼロをめざす運動、娯楽のために使役される動物を救う活動を中心におこなっています。 私たちのこういった活動はすべて、理不尽に苦しめられる動物を救いたいという思いを持った皆様、あるいは動物の置かれている現状に疑問を持つ皆様からの寄附金と会費によって成り立っています。 お寄せいただいた寄附金は、苦しみを受け、死に瀕している動物を少しでも多く救うために役立てます。 動物を尊重する皆様のお心に感謝いたします。 郵便振替(ゆうちょ銀行)で寄付する 口座番号 00110-7-127583 加入者名 特定非営利活動法人 アニマルライツセンター 通信欄 ご送金の内訳をご記入ください。 記入例①:会費1年分 記入例②:一般寄付 (ARCへのメッセージなどお書き頂けたらうれしいです) ご依頼人 あなたのご住所・お名前・電話番号をご記入ください。 現金での通常払込み 郵便局備え付けの払込取扱表(郵便振替用紙)に必要事項をご記入の上、窓口もしくは郵便振替自動受付機でご入金ください。 ご入金確認後、お礼状をお送りさせていただきます。また、初めてご入金の方にはARC NEWS最新号などをお送りさせていただきます(郵便振替の性質上、入金の確認が遅れる場合があります。ご了承ください)。 会費の自動振替はこちらへ。 郵便局の通帳をお持ちのうえ、お近くの郵便局でお手続きください。 口座番号 00210-4-18356 加入者名 特定非営利活動法人 アニマルライツセンター 振替日 毎月 27日 払込金の種別 会費 銀行振り込みで寄付 銀行へのお振込の場合、お振込いただいた旨を「入金通知フォーム」を使ってARC事務局までお知らせください。 銀行ATM、コンビニATM、銀行窓口、インターネットバンキング、テレフォンバンキング等で手順に従い、ご入金ください。 銀行名 三菱東京UFJ銀行 支店名 渋谷中央支店 口座種類 普通 口座番号 5968916 口座名義 アニマルライツセンター ご入金確認後、お礼状をお送りさせていただきます。また、初めてのお振替の方にはARC NEWS最新号などをお送りさせていただきます。 入金確認フォームには、ご入金いただいた名義、メールアドレス、ご住所、ご入金日、入金の内訳(一般寄付・会費など)をご入力の上、ご送信ください。 またはメール・郵送で 上記事項をお知らせください。 お礼状・資料等をお送りさせていただくためです。匿名でのご寄付もお受けしています。 プライバシーポリシーはこちら ご寄付へのお礼状をお送りしています。別途領収証が必要な場合はメールでその旨お知らせください。
ARCの活動・趣旨に賛同される方でしたら、どなたでも会員になることができます。 詳しくはARC定款をご覧下さい。
現在はまだ、動物たちの置かれている実態の把握や周知がまったく未熟であると判断しており、実態の調査し明らかにするとともに、消費者、政治家、著名人等々に伝えていくことに力を入れています。また、今年は動物愛護及び管理に関する法律の改正が議論されるためそのロビー活動にも力を入れる計画でおります。 ご支援いただいたご寄付や会費は、それらを行うための活動費、制作や印刷費、調査費等に使われています。 会計報告はこちら 皆さまから頂いたご支援の使い道を、一部ご紹介させていただきます。 【キャンペーン・アクション】 ・FUR FREE ASIAなどのキャンペーンの主催 ・毛皮反対デモ行進 東京・川越・横浜 ・NO フォアグラキャンペーン(署名・申入れ等) ・アパレル企業に対する毛皮廃止を求める申入れ、FUR FREE認証プログラムの推進 ・お母さん豚を閉じ込めないでキャンペーン ・バタリーケージの卵食べたくないキャンペーン ・畜産動物のアニマルウェルフェアの推進を求めるロビー活動 ・動物愛護法の改正を求める署名 【啓蒙、広める活動】 ・全国12都市によるFURFREEWEEKキャンペーン(毛皮反対デモ行進、チラシ配布) ・イベント出展、アースデイ東京、アースデイ神戸、エコライフフェア、たちかわ楽市、東京ベジフードフェスタ、エコプロダクツ、街頭アピールなど ・全国でのFURFREEポスター(毛皮反対)の掲示 約600枚 ・啓蒙チラシ配りや全国への送付、年間、NO毛皮チラシは11万枚、その他5種類のチラシ平均各4~7万枚を配布 【動物の現状を知るための調査】 ・日本の生活者に対する、毛皮の意識調査を実施(18歳~39歳 男女 1,000名) ・日本の生活者に対する、畜産の意識調査を実施(18歳~ 男女 1,188名) ・衆議院議員選挙候補者に対する動物の権利・動物愛護に関するアンケート調査を実施 ・屠畜場、食肉センターに対して、動物の取扱いの状況調査(電話によるヒアリング、書面等) ・畜産場、ペットショップ、ブリーダー、毛皮農場の現地調査 その他、行政や企業との話し合い、署名活動や提出、情報発信等 このような活動は、全て皆さまからの温かいご支援やサポートにより支えられています。またアニマルライツセンターは政府や行政からの援助は一切受けおりません。活動を、寄付という形で、ご支援下さい。 アニマルライツセンターについて 活動をしる 寄付をする
英国の動物愛護団体「ストップ・ハンティンドン・アニマル・クルエルティ(SHAC)」のキャンペーンで来日したイギリス人が、2003年に順天堂大学医学部(東京都文京区)の施設から、実験用に飼育されていた犬1頭(雑種の老犬)を持ち出しました。前代表理事が知人を通じて犬の運搬を依頼され、持ち出した犬を運搬、保護し、里親に出しました。その後この事件が判明し、前代表理事も起訴されましたが、前代表理事が亡くなったため判決は出ておりません。なお、前代表理事は事件後に代表理事を辞任しています。 この事件への前代表理事の関与は、アニマルライツセンターの他のメンバーには何も知らされないままおこなわれたもので、アニマルライツセンターとしての関与はなく、他のメンバーは逮捕も起訴もされていません。 アニマルライツセンターは活動の手法として違法行為を肯定するものではなく、今後も法を遵守した上で、活動をおこなってまいります。 その後の順天堂大学との話し合いでは、施設から持ち出された犬はアルツハイマーの動物実験用であり、その施設は撤去したことがわかり、また、保健所から払い下げた犬だったが、今後は払い下げはおこなわないことになりました。 救出された犬は、救出直後にアニマルライツセンターのシェルターに虐待された犬として持ち込まれ、アニマルライツセンターにて検査を行い、里親を探しました。救出直後の検査ではフィラリアに感染していました。その後、里親先の自然豊かな環境のもとで一生を過ごしました。 ※当時の報道では、「アニマルライツセンター(ARC)とストップ・ハンティンドン・アニマル・クルエルティ(SHAC)は協力関係にある」とか、「アニマルライツセンターはSHACグループの一つである」と表現されていますが、これは誤りであり、当時も現在もアニマルライツセンターとSHACにはそのような関係はまったくありません。
まず、利益が生まれそれによって生活している人が存在するということが、その行為を正当化する理由にはなりません。 売春や麻薬、拳銃の密売、人の臓器売買は利益を生みますが、それらは現在では重大な罪になります。現在動物を利用する産業はとても巨大で、これで生活している人も大勢いますが、このことが動物に苦痛を与え一方的に利用してよい理由にはなりません。 さらに、例えば健康増進のために喫煙に反対する人は、タバコ産業で働いている人の権利を奪っているといえるでしょうか? それを国民が支持する場合、その業界で働いている人がいることを理由に反対できないとすれば、どんな市民活動もなりたちません。 30年前、環境運動を先導する人は、高度成長をめざしてビジネスに取り組んでいる人の敵でした。 しかし現在では、環境ビジネスはステイタスを得て、特にドイツでは大きな産業を形成しています。地球を汚す産業から、地球を浄化する産業へ労働人口の大移動が起きました。 今すぐに肉食禁止や動物実験禁止の法律ができれば、確かに一時的に失業者が増えると思いますが、いずれ他の産業へ移行することになります。NEDOの報告書では、動物実験代替ビジネスの市場規模が計算されていますが、それは現在の動物実験に携わる業者を上回る規模となります。 どんな活動でも、現在のビジネス界(利害関係者)から反発があるのは当然です。うまく次の段階へ移行する道をしめしながら、交渉していく必要があると考えています。
動物の権利に関連する問題の多くは、人間に利用され、搾取され無用に痛めつけられることによって起こる問題です。動物は人間に思いを伝えるための言葉をもちません。 これらを解決するのは、人間以外にはありえません。 また、偽善であるかどうかを知っているのは、本人だけです。動物から見たときには、痛めつける人間なのか、そうでないのか、それしかありません。 たとえ本人が偽善的な精神で動物の権利を守ったとしても、その結果動物の権利が守られ、動物が苦痛から解放されたのであれば、それは偽善的行為とはいえないでしょう。
悪い伝統はなくすることは当然です。現在、動物を搾取する伝統(お祭り)が急速に姿を消していますが、それはとてもヒューマンなことだと思います。 これまで動物を使う行事が伝統であったとしても、もしそれが非人道的であると現代の社会で思われるならば、今後もその伝統を続けていかなければならない理由はありません。 たとえば、ローマ時代には人間(奴隷)が殺しあう様を見ることが市民の娯楽でしたが、現代の娯楽はルールをもつスポーツに代わりました(一部闘牛や闘犬などの原始的娯楽が残っている)。 日本でも、死刑の方法は残酷でしたしその首を市民にさらしていましたが、今では死刑の是非を問うまでになりました。どこの国では子供は幼いときから働き手として見られていましたが、多くの国で教育が義務付けられるようになりました。
動物愛護は、動物に関心の強い人が、動物への虐待や非倫理的扱いなどから動物を守ることです。 愛護という言葉は、その対象物を好きか嫌いかという人間の感情をもとにした言葉です。 一方、動物の権利運動は、好きか嫌いかが問題なのではありません。例え動物が嫌いであっても、人間という種に属さないという理由で、その動物の生きる権利を奪うことも、その動物を虐待することも倫理的には許されないという考え方です。 現在日本では「動物愛護」という言葉が多用されていますが、聞こえのいいその言葉は、しばしば動物を搾取し動物の権利を奪うことを正当化するためにも使用されます。 例えば日本の犬