動物への酷い扱いは、人への酷い扱いとつながっています。人があたりまえのように動物を殺し続ける習慣から抜け出さない限り、人は人も殺すことが正当化され続けるのです。これは”非人間化”という心理が働くためです。他人を、自分とは違う人間ではない存在で取るに足らない存在なのだと認識することで、相手を殺したり暴力の対象にしたりしやすくする心理を指しています。「ジェノサイドの 10 段階」では、1:特定の集団を分類し、2:その集団にラベリング(名称をつける)し、3:その集団の権利を否定し、4:その集団を”非人間化”し、5:暴力のための組織化や準備(武器購入など)が行われ、6:プロパガンダが行われ、7:実行のための計画が立てられ、8:その集団を迫害し始め、9:大量殺戮が行われ、10:その形跡を消そうと隠蔽すると指摘しています。2まではまだ危険性はない可能性がありますが、3以降に危険性を増していきます。3以降からその集団の人々を軽視し自分とは異なるから虐げても良いという心理が働き始める段階だからです。動物に当てはめてみると、2までは自然に行われるものだと考えられます。種が違い体の大きさや毛の色や代謝の速さなどが異なることはただの事実です。3は違う社会に生きるため人間のような権利義務の発生はありませんが、人間中心の考え方により、違う社会に生きる動物たちに介入することを始めることがあてはまるでしょう。現在の社会は、動物に対してはこの10の段階の3~9までが当然のように行われているという社会です。10番目の隠蔽することは海外ではそうとは限らないように思いますが、動物を殺すことを忌み嫌い隠したがる日本では、顕著に行われていると言えます。非人間化がおきても暴力の対象にならないことが必要現在起きている紛争に当てはめてみても”非人間化”(動物化)は起きています。ガザを巡る紛争に起いて、イスラエル人とパレスチナ人はお互いを”完全な人間よりも動物に近い”と評価しています*1。連日報道されるロシアウクライナ戦争でも、ロシアはプロパガンダとして非人間化の手法を使い続けてきていると言われています。そこまで激しいものでも顕著なものだとも思いませんが、無関係でないことは確かです。非人間化の議論は、静岡英知学院大学 波多野 純教授の「残虐行為における他社の非人間化と自己の道具化について」にあるように、多くの議論と解析がなされています。この議論にはかけている視点があります。そもそも非人間化し貶めた先の”動物”が大切にされる価値のある存在であった場合、非人間化と残虐行為が結びつかなくなる可能性があるということなのです。性差であったり、肌の色であったり、毛の色であったり、目の色であったり、違いはあります。違いがあっても軽視することにつながらないことが必要です。動物を尊重し、自分と違うことを暴力の理由にしない社会には、まだまだ程遠いでしょう。しかし、自分たちの社会が、意外と平和からは遠い社会であることを認識しておく必要はあるのではないかと思うのです。日本は、少数の好きな動物への暴力は許さないが、そうではない多数の動物への暴力は許すという理不尽な社会です。動物愛護管理法は、犬猫法かというくらい、犬と猫だけをまもり、他の動物、とくに畜産動物を取り残してきました。畜産場にほとんどの動物がいるにもかかわらずです。このままの状態では、動物の問題は膠着状態に陥るでしょう。動物愛護管理法の目的は、「国民の間に動物を愛護する気風を招来し、生命尊重、友愛及び平和の情操の涵かん養に資する」ことと動物を管理して人の財産を守り、「人と動物の共生する社会の実現を図ること」です。犬と猫だけを守り、他の動物の苦しみを放置している今の法律の中身は、この目的を達成するどころか、この目的を阻害するものになっています。差別を許し、正当化しています。現状の動物愛護管理法とその運用(条文に書かれていても実行されないなど)のままでは、動物に対する暴力を否定できていないのです。好きな動物への暴力は否定できるが、そうでもない動物への暴力は肯定する法律とその運用を見て、生命尊重、友愛、平和はイメージできません。また、”非人間化”からくる暴力も止めることはまったくできません。実際には、私達が動物たちの本来の生き方と、そして現状と解決策を伝えると、ほとんどの人と企業が賛同してくれます。アニマルウェルフェアを今よりも上げていくことに賛同しない人はほんの一部の人と集団にすぎないのです。そのほんの一部の人と集団の中の代表的なところが、政府です。おかしなことに思えますが、動物愛護管理法が畜産動物を軽視し、何の救済もしていないことにも起因しています。畜産の問題はすべての市民にかかわる課題です。だからこそ、利用される陸生動物の95%を占める畜産動物を取り残さない法律・社会を目指さして初めて、生命尊重、友愛、平和の気持ちが育つのです。なお、注意してほしいのは、動物への暴力の理由は、”非人間化”や動物であるからというだけではないことです。快楽のために、自分の利益のために、腹を立てて、八つ当たりの対象として、暴力だと認識すらせずに、、、など様々な経緯で動物への暴力は発生し続けます。そしてこれは人間にたいしても同じです。*1 https://journals.plos.org/plosone/article?id=10.1371/journal.pone.0181422参考 https://journals.plos.org/plosone/article?id=10.1371/journal.pone.0181422https://www.npr.org/2011/03/29/134956180/criminals-see-their-victims-as-less-than-humanhttps://scholarworks.umt.edu/etd/11401/https://www.cambridge.org/core/books/path-to-genocide-in-rwanda/security-wartime-threat/5B8D838EFDA924F0303CD2A4FE507EC3https://hawaii.edu/powerkills/DBG.CHAP3.HTMhttps://borgenproject.org/eight-stages-of-genocide/https://digitalcommons.usf.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1162&context=gsphttps://items.ssrc.org/insights/dehumanization-and-the-normalization-of-violence-its-not-what-you-think/クリックして Twitter で共有 (新しいウィンドウで開きます)Facebook で共有するにはクリックしてください (新しいウィンドウで開きます)クリックして X で共有 (新しいウィンドウで開きます)Share This Previous Article排泄物から発生する身近な畜産環境問題">排泄物から発生する身近な畜産環境問題 Next Article元養鶏業者はかく語りき 2022/12/30