ガザへ向かった船
ガザへのジェノサイドに抗議するために出航した支援船がイスラエル当局に拿捕され、拘束された乗員の一人が「動物のように扱われた」と語りました。
まずこの支援船の多くの人々の勇気と覚悟のある行動を称えます。公然と行われるジェノサイドをより強く明確にし世界の目を向かせ、自分事と考えるきっかけを与えくれたと感じます。ジェノサイドが早急に終わることを切望します。
この記事の指摘は彼らの行動を批判するものでは一切ありません。しかし、さらなる弱者からの視点からの警鐘をならさなくてはならないと感じるのです。
彼らは人道的支援と連帯を掲げていました。
しかし、その証言に含まれる「動物のように」という言葉は、暴力の本質と人間社会の倫理的限界をあらわにしているのです。
「人間である自分が、動物のように扱われた」という語りは、自身の受けた扱いを印象深く表現しようとし、また自身の尊厳を取り戻そうとする主張であると同時に、無意識のうちに「動物ならばそのような扱いが許される」という線引きを前提にしています。
そこに、暴力の構造の深層があります。
非人間化というジェノサイドの入口
社会心理学者たちは、ジェノサイドの過程を分析する中で、その最初の段階に「非人間化(dehumanization)」があると指摘してきました。相手を「害虫」「獣」「野蛮人」「動物」とみなすことによって、暴力の罪悪感を減じ、殺戮を正当化する心理的メカニズムが働くのです(Livingstone Smith, 2021)。これは世界中で歴史が証明してきたことです。
イスラエルによるガザ攻撃もまた、この構造を明確に持っています。「テロリスト」「人間の盾」「獣」「動物人間」といったレッテルは、市民を攻撃対象に変えるための言語的操作です。
だが今回、「ジェノサイドを止めたい」と訴える側が、拘束の中で「動物のように扱われた」と語ることになったのです。それは、非人間化がいかに社会全体に染み込み、誰もがその言語の内側で生きているかを示しています。
抗議者が再現してしまう「暴力の言語」
この「動物のように扱われた」という発言を単に「暴力の証拠」と読むだけでは不十分です。
むしろ、暴力を批判する者がその暴力の言語を用いてしまうところに、私たちの倫理の根本的な危うさがあります。
「動物のように扱われた」という言葉には、人間の尊厳を守るために“動物”を犠牲にしてきた文明の構造が透けて見えるのです。
動物は、日常的に商品として扱われ、苦痛を与えられ、声を奪われています。
それが「屈辱の比喩」として即座に使われること自体、社会がどこまでも「動物を非人間的に扱うこと」を当然視しているかを示しています。
つまり、暴力を拒絶する言葉の中に、すでに暴力が埋め込まれているのです。
弱者がさらに弱者を排除する構造
哲学者パウロ・フレイレは「被抑圧者はしばしば抑圧者の意識を内面化する」と述べています。
暴力を受けた者が、その痛みの言語をそのまま使って他者を語るとき、そこには支配構造を再現することがあるということです。
この場合、イスラエルにひどい扱いを受けた人が、「動物ならばそれが許される」という暗黙の前提を共有しています。そしてその言葉を世界中のメディアがなんの疑問も呈さずに報道しました。まるでその言葉を待っていましたと言わんばかりに、最も象徴的で中心的な活動家であったグレタ・トゥーンベリ氏の言葉よりも優先して、記事の見出しにつかい、多用したのです。
乗員たちの「人間性の回復」が「他の命(動物)の排除」と結びついてしまっています。
それは、弱者がさらに弱者を見下す構造、暴力の再生産そのものです。
終わらない暴力の根──「人間中心」の檻
ガザで続く虐殺は、国際社会の抗議にもかかわらず止まっていません。それは政治の無力だけでなく、暴力を「人間の問題」としてしか見ない倫理の限界を示しているように、種差別に反対する立場からは見えます。
もし、私たちが動物を「道具」「商品」「資源」として扱う社会を当然とする限り、その延長で「人間を動物扱いする」暴力もまた、終わらないでしょう。
非人間化を本当に終わらせるには、「人間の尊厳」を超えて、「感じ、苦しむ存在すべての尊厳」を問わなければなりません。
それができない社会では、ジェノサイドもまた繰り返されるのではないでしょうか。
自分とは異なる”カテゴリー”の動物であれば、苦しめてもいいのだという固定観念を打ち砕かない限り、人への集団的暴力もずっと続きます。
たとえ痛みを感じる存在であると知っていたとしても、その心理に、人間は、毎度陥ってきたのです。非常に陥りやすい、たとえアニマルライツを知っている人だとしても陥る可能性の高い”差別”という罠なのです。私たち人間という生き物は、動物を含めた誰かを差別していないか、自分自身に問いかける必要がある不安定な動物なのだと思います。
「動物のように扱われた」という叫びは、屈辱の証言であり、同時に文明の鏡でもあります。
暴力の言語を断ち切るには、動物を「比喩」ではなく「主体」として見る倫理的想像力が必要です。
そのとき初めて、私たちは“人間性”という名の暴力からも解放されるかもしれない…。

※動物を貶めることで暴力を象徴化したメディア
https://www.jiji.com/jc/article?k=20251006047981a&g=afp
https://www.arabnews.jp/article/middle-east/article_159617/
https://www.afpbb.com/articles/-/3601844?cx_amp=all&act=all
https://www.france24.com/en/live-news/20251004-we-were-treated-like-animals-deported-gaza-flotilla-activists-say
この件でなくても、多用される
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/151253
https://www.nikkei.com/video/6324250442112/