アニマルライツの種、撒き続けます

アニマルライツセンター誕生まで

アニマルライツセンターは今は亡き川口進によって設立されました。

もともと学生運動から、労働運動に移行し、屠殺場での労働者の権利運動などをしていた川口は動物が好きなわけでもありませんでした。
屠殺場で牛の脳天にハンマーが当てられる姿を見てその労働の危険性の改善に取り組んでいたが、当時動物の苦しみには気が付かなかったと言っていました。

その川口が動物の問題に気がついたきっかけは、アメリカの1982年の映画Atomic Cafeなどでみた核実験のために行われた恐ろしい動物実験映像でした。
もっとも弱者である動物たちが、とんでもなく苦しんでいる、そして苦しめているのは人間であり、今の社会システムであると気がつき、動物の権利運動に主軸を移していきました。

これら動物や環境の運動と、労働運動や人権運動などの考え方、そして欧米のアニマルライツ運動の盛り上がりの影響を受け、さらに日本でもアニマルライツの考え方を示すピーター・シンガーの動物の解放や、アニマル・ファクトリーなどが出版されました。

1984年、地球のいのちを守るための様々な分野の団体が集まった連合、日本みどりの連合が誕生。アニマルライツセンター創始者である川口進がここに参加したこともアニマルライツセンターのルーツの一つであるといえます。
1986年には現在も存在し私たちとも一緒に活動をするパートナー団体である動物実験の廃止を求める会が太田龍や栗原桂子により作られ、川口はこの世話人でもありました。
1987年7月、動物実験だけではなくもっと広い問題を扱いたいと、動物実験の廃止を求める会の神奈川メンバーで会合を持ち、 『動物の解放』訳者戸田清氏、『宮沢賢治の菜食思想』等書籍著者鶴田静氏、アニマル・ファクトリー訳者 高松修氏 、動物行動学者藤原英司氏、動物学者小原秀雄氏  -等の賛同を得て、1987年10月に設立されました。

30年前、どんな時代だったか

露天や祭りで幼い犬も猫が売られ、保健所には犬が溢れかえり、犬の殺処分数が70万頭をに超えていた時代です。
畜産などは旧欧米型の工場畜産が定着し、よりひどい効率的な方法が試行錯誤されていた時代です。

アニマルライツセンターの立ち上げ時の活動目標は、今の内容とほぼ変わりません。

  • アニマルライツ運動を広めること、
  • ネットワークを作ること
  • 動物虐待を防ぎ告発すること
  • 動物実験の実態を知らせ廃止を訴え犠牲となる実験動物を減らすこと
  • 工場畜産の実態を知らせ廃止するよう世論に働きかけること
  • 野生動物の生存権とすみかを保全することを訴えること
  • 動物園のあり方を問い直すこと
  • ベジタリアニズムの普及
  • 自然保護、エコロジーなどの運動のいち部を形成し強めること

でした。
各問題ごとの担当者をつくり、問題に対応していました。残念ながらやはり犬猫の問題の担当者は多く、畜産動物の担当者は決まらないという状況でその構造は今の動物問題を予見しているかのようです。しかし、畜産動物に関する実態についてのレポートも当初から多数掲載し啓発をはかってきました。

活動事例

1989~1993年

9月20日からの「動物愛護週間」に際し、犬猫の不妊・去勢キャンペーンを他団体とともに行う。趣旨に賛同する獣医師の協力のもとに、通常の不妊去勢料金に比べ格安な料金設定し、飼い主の手術費用負担の軽減をはかり、不妊去勢手術の必要性を知らせるとともに、「動物の保護及び管理に関する法律」の啓発を行いました。

1989年

日本横断パネルキャラバンとして、7月から10月まで東京、仙台、北海道、福井、大阪、九州、名古屋、東京と、車にパネルを積んでパネル展キャラバンを各地での支援者とともに行いました。

 1988~1993年

新宿西口でテキ屋の安田組組長竹内某のペット虐待露天販売中止行動を行いました。水も餌もやらず、衰弱させ、今にも死にそうな子犬、子猫、ウサギなどを、人通りの多い新宿西口小田急百貨店前で販売するというやくざ商法です。ARCでは、直接指導や、呼びかけを繰り返し、刑事告発しました。93年記録的な猛暑の中で竹内某は多くの動物たちを熱射病で死亡させ、行政もついに動物虐待で告発、警察もようやく受理し、逮捕に至りました。

1991年

雲仙噴火に伴う犬猫救助活動以降、震災や噴火 の被災動物救助を行ってきました。
ARCは、現地に世話人を派遣し、関係当局に置き去りにされた多くの家畜や犬猫たちの保護を要請しますが、相手にされず、危険を賭して立入禁止の警戒区域に入り、犬12頭を保護。

1995年

阪神大震災では、直ちに動物たちのための活動に取り組み、被災動物の救助・保護・新飼い主さがしなどを全国的に行う準備をし「阪神大震災!被災動物のための共同ネットワーク」を組織し、山口獣医師の献身的な協力の下、現地入り、現地ベースキャンプを東灘区の本山交通公園内にテント10数張を設営し、本格的な活動を行いました。

2000年

有珠山噴火があり、住民から委任状をもらい取り残された動物を強行救助し、まだ生きている動物たちをすくってほしいと国会前での訴えを行いました。

同じ年の三宅島の噴火では島からの強制避難で時間が限られる中置き去りにされた動物を救助し、また、見捨てられていた学校飼育動物の救助を強く要請、交渉を行い、ギリギリのタイミングで三宅高校のニワトリ100羽、うさぎ10羽、ひつじ2頭、あひる1羽,孔雀1羽)、三宅小学校のチャボ10羽とうさぎが救助されました。

その他、動物の血液センターであるブルー十字動物血液センターの犬猫の置き去り時の多くの団体との共同救出に協力したり、その他虐待をされていたアドベンチャーワールドの象、ピコの改善への取り組み等々、基本的に相談や事件への対応と、この間ずっと行い続けたパネル展での啓発を中心に地道な活動をおこなってきました。

全国への広がり

活動は全国に広がり、一時は小山理事のもと、山口支部が作られました。

有珠山噴火後、そのネットワークからアニマルライツセンター北海道支部も出来、北海道の多頭飼育崩壊現場への取り組みや、保健所からの払い下げ廃止、パネル展などの活動が行われました。

また、虐待された動物や、災害動物、相談への対応のために、Small Animal Shelterが臨時で作られてきました。
山梨県の個人宅で行っていたSmall Animal Shelterなどです。

決して大きなシェルターや、長期のシェルターをやるという発想はありませんでしたが、随時つくられてきました。
これは最後となった成瀬シェルターの様子です。

以前はそこまで福祉へのこだわりはなかったと思いますが、この2004年まであったシェルターでは決して繋いだりケージに入れて飼育するということも、過密飼育はせず、犬は庭とお部屋を1室常時与えられた状態に、一日2度の散歩するなど福祉的に向上させました。

このシェルターで保護した犬が、るぱん、順天堂大学から英国人が秘密裏に救出してきた犬でした。
保健所から払い下げられたこの柴犬の雑種は、とても人懐こく社交的な子でしたが、抱き上げられると突然豹変し甲高い声で叫び続けます。特に専門学校生がボランティアに来た際に、学校で習っている看護師としての抱き上げ方をした時の怯え方はひどいものでした。

トラウマを持ちながらもその人懐こさにより一命をとりとめ、切り刻まれる恐怖と痛みを逃れたわけですが、その救出時犬の運搬を行った川口は逮捕されました。幸いアニマルライツセンターとしての活動ではないと認められましたが、川口はその後の活動への影響を恐れ、逮捕とほぼ同時にアニマルライツセンター理事を辞任しました。

その後肺がんが発覚し、裁判を待たずに2004年、亡くなりました。

初代代表理事 川口進は動物の権利擁護運動の種をまいた人

アニマルライツセンターはどんどん新しい人を取りこんでいる団体であるため、今アニマルライツセンターを作っているメンバー、支援者の多くは川口のことを知りません。生前の川口をよく知る、アニマルライツセンターの元理事であり、現在はアニマルウェルフェア推進ネットワークで活躍している宗村さんに、川口の人柄を聞きました。

どんな人柄でしたか?

まず川口さんの経歴を少しご紹介しますと、彼は1947年生まれで、団塊の世代真っ只中の人。全共闘上りで、大学時代は学生運動、大学闘争をやっていたと聞いています。その後、労働争議に関わるようになって、当時の看護士さんの労働環境改善のための運動などをしていたそうです。

アニマルライツセンターを設立したぐらいの人ですから当然なのですが、川口さんは優しい人でした。長らく人間の問題に携わり続けてきた彼は、その延長で、より弱い立場の動物たちに意識が向いていったのだろうと思います。
人間、動物の垣根なく、社会的弱者に対する温かなまなざしをずっと持ち続けている人でした。昔は、住むところに困っていたような会員さんに川口さんが同情して、専従のような形で事務所を提供して、活動してもらっていた時期もありました。
一見とっつきにくく、愛想もよくはないため、無礼で冷たい人という誤解を受けることがしばしばありましたが、実はとても優しく、面倒見がいい人で、呆れるほどお人好しの面もありました。今、私も年をとったのでわかるのですが、内面の非常な素朴さ、純情さを、強面で包み隠しているような人だったように思います。彼の物腰がもう少しだけ柔らかく洗練されていたら、もっと多くの人にその訴えも受け入れてもらえたかもしれないということは残念に思うところです。
また、これは彼個人というより世代の特性のような気がしますが、国家や大企業=悪、市民=善という単純な対立構造で何事もとらえるところがあったので、こうした姿勢も誤解を受けた理由の一つになったように思います。

功績を上げるとしたら?

30年前、犬猫のことをやっている団体ですら非常に少なかった中で、食肉や動物実験のことまで踏み込み、いわゆる「愛護」ではなく、「動物の権利」という耳慣れない言葉を使って動物問題を提起したことは、非常に先駆的だったと思います。どうしても犬猫だけに関心が偏りがちな中で、工場家畜を否定し、自ら肉を食べないライフスタイルを提唱し実践している人はかなり珍しく、有言実行の、非常に立派な人だったと思います。

また、人を受け入れる度量やオープンさは彼の大きな長所の一つで、アニマルライツセンターは基本的に千客万来でしたから、入り口で人を選別するということはまったくなく、誰でも会員になることができました。そのため、多くの人がアニマルライツセンターを入り口にし、経由して、現在も動物のための活動を続けていらっしゃいます。
私は、彼は、日本に動物の権利擁護運動の種をまいた人だと考えています。

また、市民運動を長らくやってきた人らしく、NPO法人というものに対する期待が非常に高かったので、アニマルライツセンターを法人化した時期はかなり早く、他の動物愛護団体がNPO法人化を考えるときの垣根を低くしたという功績もあったのではないかと思っています。

アニマルライツセンター第2期とこれから

2001年からがアニマルライツセンターの第二期といえます。今も続くこの第二期の活動とこれからについて、現在の代表理事である岡田から報告させていただきます。

2001年から第2期

前代表理事の川口と私(岡田)が一緒に活動をしたのはたったの2年間でしたが、その間、ずっと過去の出来事、経緯、人々についての話を聞き続けました。その中で多くのことを学ばせてもらい、川口は私にとっては尊敬する恩師であり、今のアニマルライツセンターにも色濃くその特色が残っています。

相談を受けるという姿勢から攻める姿勢へ

2001年、すぐに取り組んだのは動物実験でした。
そろそろこの化粧品の動物実験という問題、日本でも廃止を加速させなくてはならないと考えたためです。化粧品の動物実験をしてないメーカーを調査しリストしたチラシの大量配布を行いました。
また、アニマルライツセンターと個人のネットワーク、Stop Animal Tests Campaignを結成し、化粧品の動物実験の廃止を求めるデモ行進Peace Walk for animalsを行い始めました。このSATCは東京から大阪にひろがりました。

この頃、川口と、「相談や事件への対応するという形の活動から、明確な目標と戦略をもったシステムの変革に向けた活動にシフトしていこう」と話し合ったことを覚えています。
それにともない、扱う課題は身近なパートナー動物への対応から消費の裏の犠牲、見えない場所で大量に犠牲になっている動物たちの問題に移っていきました。

製薬会社の動物実験に対する取り組みなども行ったり、動物実験が人に及ぼす害について医学者獣医学者の団体AFMAの日本版(Japansese For Medical Advancement)を作るなどなど行いました。
当時、日本の現状がみえなかった畜産動物たちの状況を調べ始めました。
パートナー動物ついての取り組みも継続し、犬猫の殺処分方法の改善、ペットショップやブリーダーなどの生体販売の廃止を訴え、また飼育状況の改善に取り組みました。

その後、2003年に代表を引き受けてからすぐにシェルターの閉鎖に取り掛かりました。半年以上かけて全頭の里親を探し、閉鎖。シェルターは立ち上げは簡単ですし、運営もそれほど難しいとは思いませんでしたが、閉鎖はとても大変な作業でしたし、動物たちが全て去った後のシェルターはとてもわびしいものでした。もう二度とやりたくないと思う作業です。

(↓この子は最後のシェルターボス猫です)

閉鎖した理由は、1頭の動物を救う労力を1万頭の動物の犠牲を生み出さない労力に変えなくては、動物の犠牲は一向に減らないと考え、アニマルライツセンターはその役割を担うべきであろうと考えたからです。
何百億頭、魚を入れれば無限の動物が苦しんでおり、アニマルライツセンターとしてはより多くの動物を助けるために、社会システムの変革を求めていくべきだと考えました。
それは、アニマルライツセンター立ち上げ当初の理念に立ち戻るということでもあったように思います。

ここからアニマルライツセンターは完全な啓発団体になり、戦略、計画、目標これらを重視したアニマルライツの本来的な活動にシフトしていきました。

アニマルライツの行動ネットワークを作ろう

この標語は川口と一緒に考えた最後の目標です。
この目標は時代にもあっており、ミクシィやFacebookなどのSNSの台頭とともに発展しました。今わたしたちアニマルライツ運動を行う人達は広いネットワークでつながれています。

SNSやオンラインの世界だけでなく、人と人が集う場も作ってきました。
毎月一度、動物のために何かをしたいという意思を持つ人であれば誰でも参加できる開かれた場[定例ボランティア会議]は2004年からはじめ、今まで一度も欠かしたことはありません。
最初は惨憺たるものでした。1人だけ、2人だけということもありました、でもやはり継続こそ力です。すぐに部屋は満員になり、熱い議論ができるようになりました。そのときに集まってくれたのが、その後の理事たちです。パワフルで明るく、前向きに活動ができる素晴らしい仲間たちが集っていったのです。

アニマルライツセンターは組織としては小さな団体です。けれどもボランティアのパワーはどこにも負けないなといつも感じます。今は2名の専従スタッフを置いていますが、2004年以降2015年までは専従スタッフをおいていませんでした。
それでも毛皮の輸入量を80%削減し、フォアグラの輸入量もキャンペーンをはじめてから50%以上削減しました。これはボランティアのみんなのアイデアと、役割分担と地道な努力、そして継続する力、苦しみを減らすんだという使命感で成し遂げてきたことです。でもそれは1人ではできなかったことです。私たちはネットワークや団体の力を重視しています。

毛皮をなくす運動

2003年からは、毛皮消費量を減らすためには、ありとあらゆることをやりました。
デモ行進はほんの一部でしかありません。
ブランドへのお願い、今もやっている成人式でのアクション、企業への働きかけ、舞台やテレビなどで毛皮と使わないでという要望、メディアや企業や専門学校にDVDを送ったり、毎月企業にハガキを送り続けたり、動画を編集し、アニメーションを作ったり、これらは、私たちみんなの休日の時間と深夜の時間を使ってやってきたことです。


おかげで日本での消費量拡大を防ぎました。毛皮輸入量の大幅な削減が時代や流行だったとは考えられません。中国はともかく、韓国では毛皮使用量が増えているといわれているためです。

畜産動物を守るための運動

畜産動物のための運動は苦労の連続でした。15年前は、たとえ比較的穏やかな写真のパネルを展示してもすぐにクレームが入り、動物たちの姿を見せることができませんでした。また情報もほとんどなく、海外の情報、海外の動画や写真が情報源でした。しかし海外の写真を見せても日本人はそんなにひどいことしてない、アメリカ人てひどいね、なんて言われてしまいます。文字情報で同じ妊娠ストールやバタリーケージシステムを使っているのだと伝えるだけでは、運動としては全く威力がありませんでした。
さらに30年前にすでに肉食と環境の問題が指摘されていたにも関わらず、その情報も日本ではほとんど出回っていませんでした。
畜産動物を守る運動はあきらかに日本では出遅れていました。

今は多少変わりました。もちろん今でもまだまだ不十分ですが、それでも畜産動物たちの状況をどう改善していくべきなのか、戦略を立てられるようになったのは、実態や人々の意識を把握するという努力を続けてきたからです。
でも未だに畜産業が地球環境、食糧問題等に与える影響について多くの人が認識をしていませんし、動物の状況についても認識していません。
出遅れている畜産動物たちの問題に、今私たちは最も注力しています。遅れているだけでなく、犠牲数が多く、そしてなにより、あまりにひどいためです。

運動に必要なこと:継続性と効率と教育

毛皮の運動などは私たちの継続性(しつこさ)によってなんとか減ってきているという状況にあります。諦めたり、もういいかなとやめてしまったら、増加に転じることもあるでしょう。活動は継続させなければ、たとえ良い活動であってもなかったことになります。
継続することは簡単なことではなく、強い意志と責任と持久力が必要ですし、ときに一人でもやり続ける覚悟も必要です。

そして、これから、もっとたくさん、もっと速度を上げて動物を救わないといけません。
日本国内だけでも10億頭(年間)の陸生動物の犠牲があります。のんびりしている暇は一瞬もありません。
一定の成果は出ていたとは言え、専従スタッフの居なかった時代の活動は微々たるものでした。その期間、専従スタッフをおくことが出来ていたらもっと多くの成果、つまりもっと多くの動物を救うことが出来ていたはずです。様々な方法で人々の支持を増やし、ファンドレイズもしていき、専従スタッフも1人2人と増やしていかないと動物を多くは救えません。でも、海外のような規模で寄付が集まるということは日本はあり得ないでしょう。日本では日本のやり方で活動を作っていく必要があります。
改善を重ね、多くの効果を出し、多くの動物を救えるよう知恵を絞りましょう。

継続性を持ち、効率を上げるためにも、教育が重要です。すでにアニマルライツセンターの複数あるサイトには多くの情報が掲載されていますし、勉強会や定例会のような場も作っています。今後はさらに力を入く計画です。
活動家を育て増やすことも教育の一つの目的です。私が川口に多くを教えてもらったように、私たちは知識や経験を共有する義務を負っていると思います。まだ成熟していない動物の権利/動物の福祉運動を成熟できるように導き、より多くの動物を救える運動にしていきたいと思います。

(↓11年続けた毛皮反対デモ行進)

アニマルライツセンターの良さを発揮して動物を救おう

川口は息を引き取ることになった病院で、動物実験の夢を見ると言っていました。これだけの問題を置き去りにしなくてはならないことはさぞ悔しかったことだろうと思います。
でも川口には後継者がいました。
川口自身は道半ばで亡くなってしまいましたが、彼が30年前に構想し、やろうとしたことを、私たちは今実現していっています。
自分たちもそうやって道半ばで死ぬことは間違いないと思います。動物搾取という問題は大きすぎます。でもそのときに後を託すことができる人がたくさんいてくれるよう、私たちは努力をするしか無いのでしょう。

アニマルライツセンターは

  • 行動力があること
  • 判断が早いこと

という特徴に加え、以下の2つが特徴であり強みだと思っています。

新しい人や物を取り入れるオープンなマインドであること

30年一貫した特徴です。
私たちは主張すべきことは主張しなくてはならないし、NGOの役割として厳しいことも社会に突きつけていかなくてはなりません。でもその先に居る市民や、企業や行政や人々は、敵ではありません。かつての自分であり、それが今の社会でありその社会の一部を自分も担っているのです。
敵味方にわかれるのではなく、対話をし、実現可能な改善策を提示し、より多くの動物を苦しみから解放するための団体でありたいと思っています。

動物を救うために柔軟性があること

海外の団体はと畜場の改善だけをする団体、教育だけをする団体、キャンペーンだけをする団体、福祉だけを追求する団体、など分かれていたりすることが多々あります。でも残念ながら日本にそんなことをしている余裕は全くありません。すべての役割を担える柔軟性をもって活動しています。

人が一番の財産

川口が亡くなった前後、孤独な活動をしていた私には、全国で活動してくれている人たちや、資金的にアニマルライツセンターの基礎を支えてくれる人たち、毎週アクションに来てくれる人たち、地方でチラシを配ってくれる人たち、動物たちのために翻訳や落語など自分の職業としている技術を提供してくれる人たち、持続的に動物の現状を調査してくれる人たち、責任を分担してくれている会員さんたちと今の理事たちが、どれだけ貴重かよくわかっています。
動物にとって、一人ひとりの力が貴重な戦力です。一人でも失いたくないと思っています。

これまでアニマルライツセンターに関わり力を尽くしてくださった先人たち、今一緒に活動してくださるみんなに心から感謝します。
そしてこれからも、どうか全ての動物たちのために、一緒に力を尽くしてください。
そして、30年後、もっと多くの成果を報告できることを、そしてそのときは次世代の代表理事がその報告をすることを、願っています。

アニマルライツセンター代表理事 岡田千尋

30周年にあたってのメッセージ

『動物の解放』の著者でありタイムズ紙の選ぶ最も影響のある100人に選ばれた哲学者ピーター・シンガー氏

I congratulate the Animal Rights Center, Japan, on its 30th anniversary.  To change attitudes about something as fundamental as our relationship with animals is, in any culture, a very difficult task.  Each culture presents its own special challenge, and of course Japan is no exception.  The work you do in Japan is particularly important, because it would be unfortunate if animal rights and opposition to speciesism were seen in Asia as a foreign or Western imposition.  In fact, it is rather more consistent with Buddhism and its principle of compassion for all sentient beings than with Christianity, and its idea that God gave humans dominion over the animals, and only humans have immortal souls.
So I look forward to the Animal Rights Center demonstrating that equality for animals can flourish in East Asia as much as it does in Europe or North America or Australia.

With my very best wishes for the next 30 years of animal rights work in Japan.

Peter Singer, AC

日本語訳

アニマルライツセンター創立30周年おめでとうございます!
人間の動物に対する根本的な考え方や姿勢を変化させるのは、とても難しいことです。
それぞれの国や文化において、多種多様な努力が必要であり、日本ももちろん例外ではありません。
もしアニマルライツと種差別への反対が諸外国や欧米からの押し付けのようにアジアで見られるとしたら残念なことであり、みなさんの日本での役割はとても重要だと思います。
実際、仏教の概念にある全ての感覚ある生きものに対する思いやりは、キリスト教の動物に対する支配的な考えや人間だけに魂があるという考え方よりも一致しているのです。
ですからアニマルライツセンターが、すべての動物が平等であるということを、ヨーロッパや北アメリカ、オーストラリアと同様に東アジアでも盛り上げ、大きな流れとなることを期待しています。
次の30年の日本でのアニマルライツ活動の成功を心からお祈りします。
ピーター・シンガー

動物への思いやり、配慮を強く持ち、自らもベジタリアンである日本のロックミュージシャン サンプラザ中野くん

弱い者がさらに弱い者を叩く
とブルーハーツが歌いました

動物を叩くことを受け入れるということは ヒトを叩くことも受け入れることです

皆様の活動に感謝します

サンプラザ中野くん

動物の視点から動物の実態を知らせる記事を多数掲載するフォトジャーナル『DAYS JAPAN』編集長 丸井春様

30周年、おめでとうございます!

動物に寄り添い、動物の代弁者となり、動物たちの過酷な状況、そして動物たちのきらめく素晴らしさを伝えてくださるアニマルライツセンターさんが、日本に根付いてくださっていることに深く感謝しています。
私も、動物が大好きで仕方ないひとりです。動物たちの深く、豊かな感情を信じています。
毛皮、食肉、使役させられる動物たち、実験に使われる動物たち……。私が深くアニマルライツに興味を持ちはじめたのは10年以上前、大学生の時でしたが、当時より、アニマルライツセンターさまの情報からたくさんを学ばせていただきました。
私が編集長をしている「DAYS JAPAN」という雑誌は、世界中の「命の尊厳」が奪われている現場を写真を中心に伝えることを使命にしています。そのDAYS JAPANで、数年前から、「豊かな暮らしの向こう側」というシリーズをはじめました。岡田さまにも折りに触れご執筆いただいておりますが、これは、動物たちを含めて、文字通り、私たちの「豊かな暮らし」の向こう側で消え行く動物たちの命、犠牲になる命を取り上げて紹介しています。微力ではありますが、このページは、私にとってDAYSにとってとても大切なページです。
私事になってしまいますが、私はいつか、辛い環境にいる動物たちの状況を伝えるような雑誌を作りたいという夢をずっと抱いてきました。紆余曲折と遠回りをし、そしてまだまだその夢叶えられたという状況にまでは到達できていませんが、その思いの大きなきっかけをくださったのが、まさにアニマルライツセンターさまなのです。
動物たちの過酷な状況を動物たちの代弁者となり伝え続けることは、動物が大好きであるがゆえに、岡田さまはじめスタッフの皆様の心を痛めることでしょう。悲しさや悔しさで心がいっぱいになってしまうこともあると思います。けれど、その裏で、たくさんの動物たちが、(もし人間の言葉を話せたとしたならば、笑)ありがとうと、がんばってくださってありがとうと、そう言っていると思います。
これまで30年間も活動し続けてくださっていることに、感謝でいっぱいです。
動物たちの犠牲を少しでも減らせるよう、動物たちへの私たち人間の扱いが少しでも改善されるよう、これからもがんばっていきましょう! 命が「モノ」のように消え、消される連鎖を止められますように。1歩1歩が、確実に何かを変えると信じています!
30周年、おめでとうございます。そして、しつこいですが(笑)、本当に本当にありがとうございます!
DAYS JAPAN編集長 丸井春

30年前の立ち上げ時一緒に活動をし、その後も動物のために運動をし続ける活動家 アニマルウェルフェア推進ネットワーク 多田和恵様

アニマルライツセンター30周年記念おめでとうございます。
私は発足メンバーの一人で、今はアニマルウェルフェア推進ネットワーク(旧不幸な犬猫をなくすネットワーク)という会をやっている多田と申します。

30年前、故川口氏との出会いをきっかけに、本格的に動物福祉活動の世界に足を踏み入れました。
紆余曲折あって、アニマルライツセンターに所属していた期間はわずか5、6年でしたが、その間、色々な経験をさせていただいたことは、私の現在の活動原点と言っても過言ではありません。
また、今も、毛皮、畜産、野生動物の問題等、誰もが目を背ける現実に最前線で精力的に立ち向かっていくアニマルライツセンターの姿勢には、心から共感すると共に、本当に頭が下がる思いです。
動物たちの現状は、昔も今も惨たらしいものですが、それでも、私たちが生きている間に少しでも状況が良くなるよう、動物愛護、福祉、権利のフィールドを超えて協力し合えれば、きっと事態は変わっていくと信じています。

アニマルライツセンターの今までの功績に敬意を表すとともに、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

アニマルウェルフェア推進ネットワーク 多田和恵

あたたかく、熱いメッセージを頂き、誠にありがとうございます。
さらに多くの動物を救い、暴力のない社会を目指し、力を尽くします。