しながわ水族館には5頭のイルカがいます。 4匹のハンドウイルカと、驚いた事にハンドウイルカとカマイルカの間に生まれた「ホップ」というイルカがいます。「種の保存」をかかげる水族館がなぜ自然界にはない種を作り出したのか。これは1996年、しながわ水族館が違う種類のイルカを混合した状態で飼育をしていたために、意図しない交雑種のイルカが生まれてしまったのです。ハンドウイルカの体長は約2.5~4メートル。これに対してカマイルカは約2メートルと小柄なイルカです。ホップは母親がハンドウイルカで父親がカマイルカでした。万が一これが逆で、小柄なカマイルカが大柄なハンドウイルカの子を身ごもったとしたら、出産は困難を極め、母体は生命の危機にさらされるところでした。 ホップはイルカショーでジャンプやステージを滑るなどの芸をします。 カマイルカは野生ならば数百から数千頭の大群を形成する、優れたジャンプ力を持ったイルカです。ホップは大海原も大家族も知らないまま、ただそのジャンプ力をショーに利用されています。 このホップは生年月日や生誕場所がホームページに記載されていますが、他の4頭のイルカにはそれがありません。しながわ水族館に問い合わせたところ、回答を拒否されました。イルカ問題が微妙であるため答えられないとのことですが、つまりは答えればイルカ問題に抵触するということなのでしょう。もし野生から捕獲したのであれば生年月日はわかりようもありません。イルカは野生ならば一日に約65~100キロメートルの距離を移動し、100メートル以上潜水することができます。ところがしながわ水族館のメインプールの大きさは約17m×約9m、水深は3.5mです。その奥にあるプールはさらに狭くて浅く、大きさは約10m×約5m、水深は3mです。イルカにとってあまりに狭すぎるのは一目瞭然です。イルカショーは家族連れで賑わっており、イルカが芸をするたびに「可愛い」「賢い」などの声があがっていました。ボールを投げる、ジャンプをする、そしてトレーナーの合図に合わせて鳴き、それがあたかも音楽に合わせて歌っているように演出される。「人間の命令によって擬人化された行動をする」、それははたして「賢い」なのでしょうか。動物はそれぞれが過酷な自然を生き延びるためにその身体と社会性を進化させてきました。敵から身を守り、仲間や家族を守り、食料の少ない季節でも本能と経験で生き延びる。生存のために能力を発揮する事こそが動物の「賢さ」であり、決して人間の支配のもとに強制された「芸」をすることが動物にとっての「賢さ」ではありません。 ショーが始まる前からけたたましい音楽が響いており、地下からもガラス越しにイルカの水槽を見られるのですが、そこでも重低音の響く音楽が流れていました。これに加えてショーの最中はトレーナーがマイクを通して大音量でしゃべります。しながわ水族館は近くを首都高速や国道15号線が走っており、建設中のマンションもあります。さらには競艇場のボートレース平和島があり、イルカのプールにも始終、競艇のモーター音が聞こえてきます。人間でもたまったものではない騒音ですが、人間の2倍の太さの聴覚神経をもつイルカにとってこれが毎日であるならばさらに堪え難い騒音であると思われます。 ガラスに張り付いてイルカを見ていると、すぐそばをイルカが泳いでいきます。その目線は私たち人間の姿を捉えており、イルカもまた人間を見ていることがわかります。海藻すらないコンクリートの殺風景な水槽では、人間をみるぐらいしか変化を感じるものがないのでしょう。「アザラシ館」ではアザラシのショーが行われており、やはりジャンプなどの芸をさせられていました。アザラシは仰向けになって「Facebook始めました!!」の看板をトレーナーに持たされ、宣伝をさせられていたのです。まったく、なぜ動物が観客に対して接待や営業をしなければならないのでしょうか。看板をもって営業のお手伝いをする姿が「賢い」のなら、水族館の動物の生態をみせるという大義はもうどこにもありません。 問題点はイルカやアザラシに限ったことではありません。 川辺を再現するコーナーでは小さな水槽にカモが一羽だけ入れられていました。そして他の水族館でも同様ですが、自然ではありえない密度で多種の魚が詰め込まれています。エイ、ウミガメ、アロワナ、ピラルク、オオカミウオなど、大型の生き物が多い印象ですが、いずれもひしめきあって重なるように入れられており、自由に泳いでいる、自然な姿でいるとはいいがたい状況です。クラゲはビー玉を敷き詰めた水槽や、赤や青、緑にライトアップされた過密状態の水槽など、まるでインテリア扱いです。アシカとオタリアの水槽ではオタリアが一匹だけ水中に体を横たえて力なく浮いていました。このオタリアはオープン当時(1991年開館)からいる高齢であるため、活発ではないとのこと。本来ならば群れで暮らすはずのオタリアが、一匹だけで人工の風景で老いていく姿は哀れに感じました。 ペンギンの飼育場は狭く、水槽の底にはえさである魚がたまっていました。魚を泳いでつかまえるというペンギンの能力は封印され、浅い水槽に沈む死んだ魚をつまむしかありません。 【狭い水槽でたった一頭、何をするでもなくうかんでいるオタリア。 「あれは何をしているんですか?」と聞くと飼育員は「退屈なんでしょう」と答えた。】生き物を展示する。それは生物が持つ優れた能力を発揮する場を奪うということです。また、動物に芸をさせる「ショー」は動物本来のすがたとはかけはなれています。その「ショー」によって水族館の運営を維持するのならば、水族館の存在意義はますます不明瞭になるばかりです。報告:Veg Akkoクリックして Twitter で共有 (新しいウィンドウで開きます)Facebook で共有するにはクリックしてください (新しいウィンドウで開きます)クリックして X で共有 (新しいウィンドウで開きます)Share This Previous Article北海道で気絶無しのと畜 Next Articleポール・マッカートニー 日本人にメッセージ Meat Free Mondayインタビュー 2015/10/11